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  • 西船橋マンの“今日あった地震”

  • 投稿者:西船橋マン【管理者】
 
西船橋マンの“今日あった地震”コーナー
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  • [151]
  • 今日あった地震106 ~鳥取県中部地震から2年~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年10月21日(日)11時03分36秒
 
こんにちは。

鳥取県中部地震【注1】が発生して今日の14:07で2年になります。
 この地震は私の地震ノートにも「マグニチュード6.6。震源の深さ11km。最大震度6弱」等の記述がありますが他の地震と異なり、報道されていた期間が短く、詳しい被害状況を知りませんでした。
 そこで、改めてケータイで調べたところ、以下の被害があった事を知りました。

☆負傷者…24人(鳥取県21人。岡山県3人)

☆家屋全壊【注2】…3棟

☆同半壊【注2】…3棟

☆一部損壊【注2】…6389棟(鳥取県6353棟。岡山県32棟)


また、地震回数に関するデータもありました。

☆本震前24時間に観測したマグニチュード1.0以上の地震回数…129回

☆本震後7日間に観測したマグニチュード1.0以上の地震回数…3317回

☆本震後7日間に観測したマグニチュード4.0以上の地震回数…11回

☆最大余震のマグニチュード…5.0(本震から46分後に発生)

私が見た上記資料には鳥取県西部地震【注3】が比較の為か掲載されていました。ちなみに同地震のマグニチュードは7.3(規模は鳥取県中部地震の11倍)。最大震度6強。震源の深さ8kmです。

☆本震前24時間に観測したマグニチュード1.0以上の地震回数…1回

☆本震後7日間に観測したマグニチュード1.0以上の地震回数…3319回

☆本震後7日間に観測したマグニチュード4.0以上の地震回数…23回

☆最大余震のマグニチュード…5.6(本震から47時間47分後に発生)

個人的には本震前24時間の地震回数の違いに目が行きました。マグニチュードは後者が大きく、震源の深さも後者の方が浅いにもかかわらず、地震回数は前者の方が遥かに多い…。メカニズムの違いを感じます。


【注1】
気象庁で正式に命名された地震名ではないかも知れませんが、この名称を使用いたします

【注2】
2016年10月31日時点での数字

【注3】
2000年10/6の13:30頃発生

  • [150]
  • 今日あった地震105 ~西埼玉地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 9月21日(金)06時28分29秒
 
おはようございます(^-^)。

1931(昭和6)年の今日、11時20分頃。深谷市を震源【注1】とするマグニチュード6.9の地震=西埼玉地震が発生しました。この地震は深谷断層【注2】の一部が活動して発生したと推測され、東北・関東・中部・近畿地方で揺れを感じ、関東地方の大部分が強震域【注3】に入ったそうです。
 文章を作成するにあたり、私が参考にした資料の1つに「震源の深さは約17kmで総振動時間は約30分、余震は20日以上続きました」と記述されていましたが、「総震動時間は約30分」に首をひねりました。海溝(海洋)型の東日本大震災では時間を置いて3つの地震が発生し、揺れる時間が長くなりましたが、内陸直下型の西埼玉地震で約30分揺れていたとは…。地形や後述する地盤と関連があるのでしょうか?
 この地震による被害は…

○死者16名

○負傷者114名

○全壊家屋207戸【注4】、

…とあり、埼玉県では1923(大正12)年に発生した関東大震災に次ぐ被害だったと資料にありました。中北部荒川及び利根川沿いの沖積地に被害が多く見られ、液状化現象もあったようです。

資料を見ている中で、関東大震災との家屋全壊率を比較した数字を見つけました。
 それによると、前者は数10%(最大80%)の町村があるのに対し後者では1~3%程度(最大 5.6%)と数値そのものは小さいものの、被害の分布状況については…

河川流路沿い低地の細粒堆積物からなる軟弱地盤地域での被害が大きく台地上では被害が小さい

…等のいくつかの共通点があったとありました。
 石燈籠・墓石の転倒方向をみると,熊谷周辺およびその北方の利根川流路沿いでは,主に東西方向に転倒しているのに対して南部の丘陵地では南方向に転倒していた(←震源断層の北方と南方で揺れ方向の成分が異なることを示唆)との事です。墓石の転倒率は…

○沖積低地の旧河道上でほぼ100%

○丘陵地内の谷底面および沖積低地の自然堤防上で70%

○新期扇状地面上で30~50%

○更新統【注5】からなる櫛引台地や江南台地(←共に震央に近い)ではほとんど転倒が見られなかった

…と、ありました。
 液状化現象の多くは,自然堤防【注6】の縁辺部(氾濫原との境界付近)で発生していて、地層(砂層)の堆積年代が新しい&地下水位が浅いほど液状化現象が生じやすかったようです。
 上記の調査結果は現在にも通じる要素があり、私達に示唆を与えてくれているように思います。

尚、この文章はケータイを参考に作成しました(参考にした資料の1つのURLを一番最後に付します)。


【注1】大里郡寄居町付近とする資料もあり

【注2】
熊谷市三ヶ尻から岡部町岡まで続く活動度B級(1000年当たり10cm以上1m未満)の活断層

【注3】
当時の震度は現在と異なっていて、現在の震度4~5弱に相当すると思われます

【注4】
206戸とする資料もあり

【注5】
更新世(約258万年前から約1万1700年前)に堆積した地層で台地を構成する地層(主に砂層)は比較的強固

【注6】
氾濫原(河川の堆積作用で生じた平地で洪水時に冠水する部分。河川の側方浸食によって谷幅が広がり谷礫が堆積する事で形成される)を流れる河川の両側に洪水時に運ばれた土砂が自然に堆積し形成された堤防状の小高い地形


〔参考資料〕
タイトル:
西埼玉強震報告
URL:
http://p223.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/08290XCVuS2BGci3/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww.center.spec.ed.jp%2Frikadaisuki%2Fmini%2Fchigaku_index%2Fdekake%2Fnisisaeq%2Fnisisaeq.htm&_jig_keyword_=%90%BC%8D%E9%8B%CA%92n%90k&_jig_done_=https%3A%2F%2Fsecure.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fonesearch%3Fp%3D%2590%25BC%258D%25E9%258B%25CA%2592n%2590k&_jig_source_=srch&guid=on
※タイトルは私がブックマークする便宜上付した物です

  • [149]
  • 今日あった地震・番外編27 ~時には大胆な策も~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 9月19日(水)06時27分14秒
 
おはようございます(^-^)。

以前にも取り上げた事があるカスリーン台風。
 1947(昭和22)年の今日、2:20。東京都を守る最終防衛線だった桜堤が決壊し、葛飾・足立両区に濁流が流れ込みました。
 桜堤が決壊する直前の18日19時頃、東京都の強い要望【注1】を受けた内務省が桜堤決壊を回避する為、葛飾橋上流右岸【注2】の江戸川堤防の開削を決定し、進駐軍(実質的には米軍)に堤防破壊を依頼します。当初は江戸川の水位も高かった上、ダイナマイトを使った堤防の破壊も難航【注3】し、桜堤決壊を阻止する事は出来ませんでしたが決壊からほぼ半日後の15:15、堤防の破壊に成功し桜堤より下流への濁流の流入を減少させる事が出来ました。
 個人的に堤防を破壊して洪水を江戸川に流すと言う手段は非常事態とは言え、かなり大胆な策だと思います。
 決壊を阻止する事は出来ませんでしたが、「天変地異による非常事態時には大胆な策も必要なのかも知れないな」と感じました。


【注1】
桜堤が決壊すると、東京都東部の人口密集地帯が濁流で一挙に水没する事になる為

【注2】
状況から埼玉県側の堤防だと思われます

【注3】
最終的には人の手による掘削も併用して堤防を崩したようです。

  • [148]
  • 今日あった地震104 ~リツヤ湾大津波~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 7月 9日(月)07時16分16秒
 
おはようございます。

1958年の今日、アメリカ合衆国アラスカ州南東部にあるリツヤ湾でマグニチュード7.7【注1】の地震が発生し、それに伴ってリツヤ湾沿岸の斜面から土砂や氷塊が大規模〔推定崩落量3000万立法m(東京ドーム換算で約24.2個分)・9000万t〕に崩落して雪崩れ込み、最大波高524m【注2】と推定される津波が発生。湾内に停泊していた漁船3隻(乗員は計6人)中2隻【注3】が沈没し、うち1隻の2人が犠牲となりました。
 前述の発生経過からこの津波を「地震津波」とするか否かには意見があるようですが、私はこれを「間接的であるものの地震が原因で発生した津波」と捉え、取り上げる事にしました。また私自身、一度だけですが図書館で借りてきた本でこの津波に関する事を目にしました。それも織り混ぜながら書き進めて参ります。

リツヤ湾は奥行き約12km、幅約3kmと細長いフィヨルド【注4】で、湾の奥でT字型に曲がった両側から氷河が流れ込んでいます。
 この地震が発生する5年前、オイルを探していた地質学者がリツヤ湾内に面した山の斜面である高さより下の木が全て若い木の上、その境界線の高さが一定でその線辺りの一帯の木に大きな傷が一様に付いている光景を目にしました。地質学者が傷付いた木を持ち帰って木の専門家に見てもらうと、何かの大きなインパクトが海側で起きたとの事でした。
 私が本で見たのは…

学者がリツヤ湾内の斜面を撮影した写真で一定の高さのところに線を引いたような痕跡(確か2ないし3ヶ所)の存在に気付き、色々な原因を検討した結果、最終的に「大きな波が襲った為についた痕跡」と言う結論に至り、発生原因を色々推測している時にリツヤ湾大津波が発生した

…と言う趣旨だったと記憶しています。
 私が見た本には停泊していた漁船3隻のうち、2隻に乗り組んで助かった船員の証言が出ていました。そのうち1隻の船員の証言(私の記憶なので不正確なところ有り)によると…

揺れを感じると同時に、山(=リツヤ湾沿いの斜面)が前進するのが見え(←土砂や氷塊の崩落を意味していると思われます)、丸太(←崩落で樹皮が剥けたようです)が見え、その後漁船は波のてっぺんに乗る形(←波乗りサーファー状態)になり、湾を出たところで波が砕けて漁船は落下し大破したものの、沈没寸前に救命艇に乗り移り助かった

…との事でした。ちなみにリツヤ湾では過去120年間に5回の巨大津波が発生していると資料にありました。平均すると24年に1回の計算になります。
 個人的には大量の土砂等の流入も去ることながら、奥まで水深のあるフィヨルドの地形も巨大津波を発生させた要因ではないかと見ています。つまり、大量の土砂等が水深のあるフィヨルドに一気に流入した為に大量の海水が盛り上るように動いた為に巨大津波が発生した。と言う推測です。

リツヤ湾のような「大量の土砂等の流入→津波の発生」ですが、日本でも10年前に発生した「岩手・宮城内陸地震(>>74参照)」で起きています【注5】。また、イタリアではダムに大量の土砂崩れが流入した事で100mを超える津波が発生してダム本体を越えてダム湖周辺と下流を襲い、住民とダム関係者の2125人【注6】が犠牲になる痛ましい事例も記録されています。
 日本にも大小様々なダムがありますが、急峻な地形の上流部にあるダムに関しては可能性は低いものの、イタリアのような事例が発生しないと断言出来ないのではないでしょうか?


【注1】
M8.3とする資料もありました

【注2】
これは遡上高さ(駆け上がった高さ)だと思われます

【注3】
今回見た資料では「沈没1隻」となっていましたが、私が以前読んだ本では「沈没2隻」を示唆する内容の文章となっていたので後者をとりました。

【注4】
氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江で陸地間際まで水深が深いのが特徴

【注5】
北上川水系二迫(にはさま)川にある荒砥沢(あらとざわ)ダムに大量(ダム貯水容量の1割に相当)の土砂が流入しダム湖で津波が発生したものの、梅雨に備えて貯水量が少なかった為大事には至りませんでした

【注6】
死者数は異説も有ります


  • [147]
  • 今日あった地震・番外編 26 ~四川大地震の断層~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 6月 1日(金)19時37分7秒
 
こんばんは。

先日の新聞に「四川大地震から10年」との見出しがあり、記事に目を通しました。その後ケータイで四川大地震を検索したところ、大地震を起こした断層(龍門山断層帯)に関して…

「従来の地質学で『古い断層』や『活動していない断層』とされていた龍門山断層帯で地震が発生したことは衝撃を与えた」

…と言う趣旨の一文を見つけました。
 何故衝撃を与えたかと言うと、この断層はある研究によると平均変位速度は1mm以下/1年と非常に動きの遅い断層で1千万年前以降はほとんど活動していないとされていて、かなりの長期間に渡って静穏期に入っていたと見られていたそうです。そこで四川大地震が発生したのです(ちなみにこの地震はこの静穏期の終わりを告げるものと位置付けられるそうです)。

これは、私達への警鐘(教訓)を含んでいるように思えます。
 「活断層」は日本にも複数存在していますが同時に、「東京湾北縁断層」のように「『活断層ではない』とされた『断層』」や、単に「断層」と称される断層も活断層以上に多数存在していると思います。四川大地震における龍門山断層帯を考えた場合、「活断層ではないから大丈夫」とは言い切れないと思えてなりません。
 以前、外国には数十~数百万年の噴火周期を持つ火山が存在すると言う一文を目にしました。大自然の持つ時間のスケールを考えた場合、同等あるいはそれ以上の活動周期を持つ(活)断層が存在していたとしても、不思議は無いと思えます。事実、前述の東京湾北縁断層について…

「元荒川断層帯」「越谷断層(後2者の名前はやや曖昧)」と共に一つの断層で、M8級地震を起こす恐れがある

…と、指摘をする専門家のコメントを見た事が有ります。

神経質になる必要は無いかも知れませんが、頭の片隅に置いていただければと思います。

  • [146]
  • 今日あった地震・番外編 25 ~熊本城の石垣~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 4月15日(日)06時08分21秒
 
注・この文章は超長文になります。あらかじめ御了承の上、お読み下さい<(_ _*)>。


おはようございますm(__)m。

昨日が熊本地震の前震発生、そして明日が本震発生からそれぞれ2年になりました&なります。

熊本地震では熊本城の甚大な被害、特に石垣のそれがクローズアップされた感がありますが、昨年4/16に放送されたNHKスペシャルでは石垣について取り上げていましたがそこで意外な事実を知り、驚きました。
 熊本城の石垣は加藤清正が築城時に築いた物と明治以降に築かれた物があるそうですが、前者で崩落したのが10%程だったのに対し、後者は31%が崩落していたそうで、更に前者は斜面に直角に石垣が積まれていたとの事です。確かに斜面と直角に石垣が積まれていれば地震の揺れに強い事は想像に難くありません。
 そして見ていた私は勿論、調査をした専門家の方も舌を巻いたのが…

「築城時に築かれた石垣の積み方が理論的で、完全に数式化出来た」

…事です。番組内でもそれが出ていましたが正直なところ、私の頭では見ていてちんぷんかんぷんな難しい数式でした(^^;。
 勿論、石垣の積み方は当時の職人(=技術者)の方々が経験則から編み出した物で、そのような数式は知らなかったはずです。その時代に築かれた石垣から理論的に数式が導き出されたのは凄い事であると同時に、当時の職人(加藤清正は石垣を造る有能な職人を擁していたと言われます)の持つ技術の高さを示す証拠だと思います。
 これはやや余談になりますが、築城期の石垣に関しての>>113にある専門家の指摘、私も言われて「確かに…」と納得しました。


以下は本題から外れますが、「イザと言う時の備え」の視点で参考になると思われるので記します(スルー可)

熊本城は薩摩の島津氏を仮想敵に築城されたとの事で、北より南に対する守りが重視されているそうです。以前、「ブラタモリ」でも「やり過ぎ(=守備が厳重過ぎる)城」と言う表現をして取り上げていました。
 事実、1877(明治10)年に勃発した西南戦争では薩摩軍の攻撃にも耐え抜き、薩摩軍を率いていた西郷隆盛をして「清正公(せいしょこ。【注】)に負けた」と言わしめました。よく、「難攻不落(の城)」と言いますがそれは熊本城に相応しい言葉かも知れません。
 また「やり過ぎ(城)」と言う表現も、現在(いま)の視点で見るから言えるのではないでしょうか? 確かに私もブラタモリで見た二重三重どころか四重五重と言っても過言ではない守備の堅固さには驚きました。ただ、現在の視点で見れば「やり過ぎ」かも知れませんが、築城時においては朝鮮出兵の記憶も生々しい上、当時の日本も「それだけの備えをしなければいけない状況」だったのではないか? と言う気がします。

そして、加藤清正は朝鮮出兵の際に経験した籠城戦の教訓から籠城時の食料及び水の確保にはかなり気を遣ったようです
 前者は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備え、後者については熊本城内に規模が大きく、水量豊かな井戸を120箇所掘ったそうです。これらは江戸時代、そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなったそうです。
 その中で個人的に注目したのが、官軍が畳床に使われた里芋茎を活用した点です。畳自体は定期的に取り替えていたはずですが、官軍が里芋茎を活用出来たと言う事は築城時から明治に至る270年間、大半は天下泰平で平和な時代で途中で止めていても不思議はないにも関わらず、担当者間の引き継ぎがしっかり出来ていた事の証だと思うのです。これは見習うべきだと思います。

また、朝鮮出兵の際、10里四方に敵の姿が無く無事であるにも関わらず。指揮下の兵に武装させた上で食料を持たせ、自身も完全装備(鎧兜+食料&銀銭300文を携帯)で居たので迎えに来た友軍の者が驚き、理由を問うと「油断大敵であって、しかも自分がくつろいでしまえば部下もそれに習うから」と、答えたとの事です。>>130に取り上げた徳川義直に共通する要素を感じますが、これも見習うべきところだと感じました。


【注】
熊本での親しみと敬意を込めた加藤清正の言い方

  • [145]
  • 今日あった地震・番外編24 ~BCPより~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 3月10日(土)11時47分48秒
 
こんにちは( *・ω・)ノ。

東日本大震災から明日で7年になりますが「BCP(事業継続計画)」と言うフレーズを御存知でしょうか?
 難しく書いてありますが平たく言うと「災害時のマニュアル」のようです。

東日本大震災のあった年の10月、毎月初めにある安全の日で社長が口にしたのが私にとっての出会いでしたが最初は何だか分かりませんでした。

   (・_・;)?

その翌日か翌々日頃、上司のライン(=機械)を手伝っていた際、ライン脇にある机に「BCP」と書かれた表紙の綴じたプリントを発見。上司に確認したところ見ても良いとの事なので目を通しました。

[BCP](..)ドレドレ…

私が見たのは親会社のBCPで、その後それをベースに私の会社でもBCPを作成したようです。
 色々書いてある事を読み進めるうちに、「帰宅や避難時に備えて普段から(社員に)周知徹底させる留意事項」と言う項目に目が留まりました。

これは個人レベルでも役立つ上、語呂が良く(覚えやすくする為だと思います)、覚えやすいので以下に記します。

・作っておこう帰宅地図(歩いて帰る訓練)

・事前に家族で話し合い(連絡手段、集合場所)

・携帯ラジオをポケットに

・ロッカー開けたらスニーカー(防災グッズ)

・季節に応じた冷暖準備(カッパ、携帯カイロ、タオルなど)

・安否確認、災害伝言ダイヤルや遠くの親戚

・慌てず騒がず状況確認

・声をかけあい助け合おう


以上、皆様の中で何らかのお役に立てば幸いです。

  • [144]
  • 今日あった地震・番外編23 ~続・テレビを見ていて~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 3月 5日(月)21時43分37秒
 
こんばんは(o⌒∇⌒o)。

今年の2月までチバテレビで「京都国宝浪漫」と言う番組が放送されていました。今年の2/19は「三十三間堂」を紹介する内容でしたが、その中で…

(三十三間堂の建つ)地面は粘土と砂を交互に積み重ねる事で船のように揺れる事により地震の揺れを吸収する構造で、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の際も仏像が1体も倒れなかった(大意)

…とのナレーションがあり、興味を持ちました。 そこで、ケータイで調べたところ、上記ナレーションのように砂(資料によっては砂利とも)と粘土を交互に積み重ねる「版築」と呼ばれる技法を用いて地盤をわざと揺れ易くする事で逆に地震の揺れを吸収したのだそうです。
 その発想の背景に「自然には逆らわない」と言う日本人独特の自然観が有る事を挙げている資料もありましたが、言われてみると「確かに…」と思い当たるフシがあります。
 日本の寺社でよく見かける五重塔は揺れてしなる事で揺れを吸収すると何かで見た事があり、また日光東照宮の五重塔は中心にある柱を地面から浮かす事で揺れを吸収する構造で、それは東京スカイツリーにも採用されていると見た覚えがあります。
 三十三間堂は後白河上皇【注1】の発願で平清盛が資材を提供し1165年に完成しています(その後1249年に火災で焼失し、1266年に再建)。番組では「清盛が建立にあたり自分の領地〔資料では備前国【注2】〕の税収を惜しみなく注ぎ込んだ(大意)」とナレーションしていました。個人的に平清盛と言うと厳島神社を、平家と言うと日宋貿易を連想します。厳島神社にも波の勢いを削ぐ工夫がされていると聞いた事があります。
 これは私の想像でしかありませんが、清盛は日本古来の土木技術と宋(中国)の土木技術を上手く融合させると同時に、そのような事が出来る柔軟かつ先進的な思考の持ち主だったのかな? と思いました。


【注1】
第77代天皇

【注2】
現在の岡山県東南部

  • [143]
  • 今日あった地震・番外編22 ~千葉県の最大積雪~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 2月24日(土)15時22分23秒
 
こんにちは。

先日、北陸地方を中心に記録的な大雪となりましたが、そのニュースを聞いていて、私の持っている地学の本で見た千葉県の最大積雪の事を思い出しました。
 1951(昭和26)年に当時の白井町(現在の白井市)で記録された133cm。ちなみにこの数字は今回ケータイで調べたところ気象台等ではなく、自治体が独自に観測した数字と言う事が分かりました。
 数値自体は私の持っている本に出ていましたが、この時の雪に関して具体的な事は分かりません。そこで「千葉県最大積雪」でケータイを検索したところ、「この年の2月14日から15日にかけて低気圧が猛発達し関東で暴風雪になった」とあり、千葉県以外の主要地点の積雪は以下のようになっていました。

・東京33cm

・横浜24cm

・熊谷27cm

・津26cm

・大阪12cm

・高松15cm

・徳島29cm

東京や横浜は今の感覚でも大雪と認識される積雪です。そして、「特に房総半島では、記録的な豪雪となった」とあり、白井町以外の千葉県内主要地点の積雪が以下のように記されていました(読み易いよう一部補足をしています)。この数字も自治体が独自に計測したもののようです。

・千葉市仁戸名町91cm

・千葉市都町80cm

・木更津75cm

・千倉64cm

・久留里60cm

・佐倉54cm

・館山43cm

・鴨川と一宮40cm


北部はともかく、館山等冬でも暖かいはずの南房総での積雪量はにわかには信じられない数字です。千葉県以外の主要地点の積雪量との比較から、千葉県に強い雪雲が長い時間かかる気象状況だった状況が示唆されます。

ここまで来て、私は生前の父から聞いた事を思い出しました。
 父は私に「子供の頃朝起きたら居間の窓の下まで雪が積もっていた事があった」と話した事があります。ちなみに居間の窓の位置は昔も今も変わらず、地面からの高さは測ってみるとおよそ80cmあります。父(1943年生まれ)は「子供の頃」と言うだけで、昭和何年と言うような具体的な数字は言っていませんでしたが、1951年2月時点では7歳だったので「子供の頃」と言う発言とも矛盾はなく、80cmに迫るであろう積雪があったとしても不思議ではありません。父の経験は上述の大雪の事だったと思います。
 とすると、関東南部でも気象条件が揃えば私達の想像を絶するような積雪になる可能性があると言う事になります。4年前の2月に関東であった記録的な大雪の後、専門家が「首都圏でもこれからは大雪の備えをしなければならない(大意)」と指摘していましたが、今回の北陸地方の大雪は自然からの警鐘なのかも知れないと感じました。


  • [142]
  • 今日あった地震・番外編21 ~ブラタモリを見ていて…~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2018年 1月21日(日)20時34分58秒
 
こんばんは(*´∇`*)。

タモリさんが近江アナや解説役の専門家と共に街をブラブラ歩いて番組冒頭に示された「お題」の謎解きをしていくNHKの「ブラタモリ」。昨夜の舞台は田園調布でした。
 現在は超高級住宅地の田園調布ですが、元々はサラリーマン向けの分譲地だったそうです。その田園調布が超高級住宅地となるきっかけが関東大震災だったとの説明には前述のサラリーマン向け分譲地だった事実と合わせて二度びっくりしました(^^;。
 何故関東大震災かと言うと、関東大震災後に複数の軍人【注】が田園調布に移住してきた事で街の「格」が上がり、超高級住宅地の第一歩になったとの事。そして、軍人が田園調布に移住した理由は…

☆台地で地盤が良い

☆軍の施設が比較的近くにあったので非常時に直ぐ駆けつけられる

…なのだそうです。前者は「地盤が良い=被害を受けにくい=人的ダメージを極限出来る=被災直後でも駆けつけられる」と言う事なのだと思います。


【注】
当時の軍人は世間一般からそれなりの地位にあると認識されていたようです。


  • [141]
  • 今日あった地震103 ~メッシーナ地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年12月28日(木)06時06分45秒
 
おはようございます。
 この文章は超々長文となります。あらかじめ御了承下さい<(_ _*)>。

1908(明治41)年の今日、現地時間の(午前)5時20分27秒にイタリア王国(当時)のメッシーナ海峡を震源とする(モーメント)マグニチュード7.1の地震=メッシーナ地震が発生しました。
 深刻な被害(後述)が出たメッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアの震度について、イタリア国立地学火山学研究所(INGV)の地震データベースでは改正メルカリ震度で10から11としていますが写真ギャラリーでは改正メルカリ震度 11から12に達したとも記されているそうです。ちなみに改正メルカリ震度の震度階級では…

震度10…破滅的

震度11…壊滅的

震度12…絶望的

…となっていて、震度10以上の加速度はは432gal(ガル)以上となっていますが、これを気象庁の震度階級に当てはめると震度7(400gal以上)に相当します。
 この地震の揺れは北東ないし東へ約400km離れたアルバニアやイオニア諸島でも感じられ、6000平方kmに及ぶ地域でほぼすべての建物が破壊されたそうです。また、地震の揺れが非常に大きかった事に加え…

☆津波の発生(メッシーナ南部およびレッジョ・ディ・カラブリア南部で最大12m)

☆この地域の建築物の構造が大地震に耐えられ物ではなかった(脆弱な基礎の上に重い屋根を載せて建築。資材の強度も不十分だったようです)事

☆過去15年にわたって頻発していた地震が家屋
に損傷を与えていた事

…等の諸条件が重なり、死者8万2000人〔(地震8万人+津波死者2000人)【注1】〕と言う>>137から>>139にアップした「(1755年)リスボン地震」をも上回る近代ヨーロッパ史上最悪とも言える被害を出す地震災害となりました。一時「15万人いたメッシーナの人口がわずか数百人になり、イタリア全国では20万人が死亡した」との情報(デマ)も流れたようですが、そのような情報が広がる位、凄まじい被害状況だったのだと想像出来ます。
 メッシーナ海峡に面した人口14万人のメッシーナと同じく4万5000人のレッジョ・ディ・カラブリアの2都市は深刻な被害を受け、特にメッシーナでは地震と津波の襲来によって建築物の90%が破壊【注2】され下敷きになった数千人がそのまま亡くなり、電線・ガス・街灯も損傷します。通信・交通手段(道路・鉄道・電信・電話)が寸断されていた為、震災の情報はその日の深夜になってイタリア海軍の魚雷艇によって電信線が生き残っていたニコーテラにもたらされたと資料にありましたが、これを見ると現在私達が「ライフライン」と認識している物が壊滅的ダメージを受けたと推測する事が出来ます。

震災は世界各地にトップニュースとして伝わり、国際赤十字の支援を受けて国際的な救助活動が行われる事となります。
 救援活動は海上から行われ、イタリア海軍と陸軍は捜索と負傷者の手当てや艦船による被災者の避難を実施し、略奪者には発砲が行われることになったとの事です。救援活動が海上から行われたと言うのは、道路が土砂災害等により文字通りズタズタになっていた事を示す物だと思います。
 地震発生直後には港に停泊していた艦船の乗組員が救援活動を行い、住民の救助や避難に協力したようでメッシーナ港に停泊していたイギリスの貨物船の船長達は被災地での救助活動をおこない、後にアルバート・メダル【注3】を受けています。また地中海で活動していたロシア海軍・イギリス海軍は、最初期から救援に入り水兵による捜索と瓦礫撤去や医官による医療の提供が行われました。この時、救援に派遣された主な艦艇を挙げると…

ロシア海軍…戦艦「ツェサレーヴィチ」・スラヴァ」及び巡洋艦「アドミラル・マカロフ」「ボガティル」

イギリス海軍…戦艦「エクスマス」及び巡洋艦「ユーライアス」・「ミネルヴァ」・「サトレッジ」

フランス海軍…戦艦「ジュスティス」・「ヴェリテ」及び駆逐艦3隻

アメリカ海軍…世界一周航海をしていたグレート・ホワイト・フリート【注4】の旗艦「コネチカット」・「イリノイ」及び補給艦2隻

…で、ドイツ等も艦艇を派遣したとの事です。
 1908年に入ると再建が始まり、建築物はこの地震と同規模の地震に耐えられるように設計されたそうです。しかし、復興の進まない中でイタリアのほかの地域に移住する住民も多く、アメリカ合衆国へ移民した人も少なからず居たとの事です。
 私は先に…

この地域の建築物の構造が大地震に耐えられ物ではなかった

…と記述しましたが、この地域は地震が少なかったのかと言えばそうではなくむしろ活発な地域で、この地震に先立ってマグニチュード6以上と推定される地震が1894年・1905年・1907年に発生しており、更に遡ると紀元前91年・361年・1509年・1783年に大地震がこの周辺で発生していました。

また、この地震は地震学史上は近代的な計器観測データが残る最初期の大地震の一つで、その記録は建築・環境と地震被害の関係についての研究材料を提供し、20世紀における地震学研究・防災研究の発展に寄与したと資料にありました。数多くの地震学者が研究発表をし、日本の大森房吉は現地に入ったそうです。また、「1980年代前半以後、地震学研究にコンピュータが導入されることによってメッシーナ地震の再検討や研究が進められ、2000年代以後は津波の発生機序など多くの議論が深められている」と資料にありました。

この文章を作成に際しメッシーナ地震の資料を見ている中で、この地震が兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に似ていると個人的に感じました。
 モーメントマグニチュードも前者が7.1に対し後者が6.9【注5】と似通っています。しかし、メッシーナ地震では最大12mの津波が発生したのに対し後者のそれは最大でも68cm【注6】。これについては2008年に「津波を発生させたのは地震そのものではなく、地震を引き金とした大規模な地滑りである」との説が発表されました。しかし、地滑りは陸上・海底どちらでも発生する可能性がありますが、何処で発生したかの記述はありません。
 津波を起こすレベルとなればかなり大規模な地滑りが発生しなければなりませんが、参考にした資料(ウィキペディア)からは陸上で土砂災害が多発した事が想定されるものの、大規模地滑りの発生を示唆する記述はありませんでした。そうなると、海底で地滑りが発生したのでしょうか。

超々長文、失礼しました<(_ _*)>。

【注1】
上記の数字が多く採用されていますが正確な死者数は判明しておらず、他に「メッシーナで6万5000人、レッジョ・ディ・カラブリアで2万5000人」や「12万3000人」とする記録も有るようです。

【注2】
津波の襲来によって建築物の90%が破壊されたとの記述も有りました

【注3】
詳しくは分かりませんが人命救助に貢献した人(あるいは組織・団体)に授与されるイギリスの勲章だと思われます

【注4】
通称GWF。セオドア・ルーズベルト大統領の発案により大西洋艦隊に所属する新造戦艦16隻(前後半で2隻が入れ替わっているので延べ参加隻数は18隻)を基幹に編成された艦隊(他に支援艦艇6隻随伴)。名称は戦艦全てが艦体を白く塗装していた事に由来し、後に太平洋戦争で艦隊を率いて日本海軍と戦う事になる若き日のハルゼー・スプルーアンス両提督も1水兵として参加していたそうです。

【注5】
よく目にする「M7.3(2001年4月23日の改訂により7.2から修正)」は気象庁マグニチュード

【注6】
淡路島の江井で観測


  • [140]
  • 今日あった地震102 ~30年前の記憶~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年12月17日(日)08時13分33秒
 
おはようございます。

千葉県東方沖地震が発生して今日の11:08で30年となります。
 詳細は>>13の「今日あった地震10」でアップしていますが、ここでは私自身の体験を「くもの巣【#2】」にアップした事を交えて書いて参ります。

話は30年前の1987年に遡ります。ちなみに私は4月に中学生になっていました。
 その年の5月下旬から6月上旬(前者の可能性大)のある日、教室に居た私は黒板の上にある箱型のスピーカーに目が留まり、それが固定されていない事に気付きました。そしてこれが今でも不思議なのですが、地震の知識はほぼ皆無だったのに「地震が来たら危ないな」と感じました(←これは今もはっきり記憶しています)。私はすぐ職員室に行き…

((((((( ・_・)テクテク  【職員室】

…後の恩師となる担任(女性。以下「担任」)に伝えて了解を得た上でビニールヒモや割り箸、ガムテープで不完全ながら固定しました。

そして、12月17日。
 その日も私はいつものように7:45頃に家を出ましたがその際、母が当時飼っていた犬(2匹)が「うるさい(くらいに鳴いている)」と口にしました。ただ、当時の飼い犬は2匹共普段からよく鳴いていたので私が特に気に留める事はありませんでした。今思えば、それは前兆現象だったのかも知れません(いつも家に居て鳴き声を聞き慣れている母が「うるさい」と言ったくらいなので普段より鳴き方が激しかったとの推測が成り立つので)。
 登校後、1時間目・2時間目と何事もなく過ぎ、3時間目の数学に入り黒板の前の教卓には担任(数学担当)が立ち、授業を進めます。その時私は教室(黒板は西側にありました)の南東端の扉&ベランダ出入口に一番近い机に座って授業を受けていました。
 そして、何気なしに外に視線を向けたところ外が白く光ったように見えました。

   アレ (・_・?

そう思うのとほぼ同じタイミングで小さく揺れだしました。教室の中でも「地震…?」とささやく声が聞こえます。そして次の瞬間、大きくガタガタとした揺れが襲いました。「キャー!!」と言う声も聞こえます。私は咄嗟に廊下に通じる扉とベランダへの出入口を開け放ちました。その流れの中で視線に入った黒板側では担任が教卓に伏せていて、黒板の南側にあった棚から物が落ちているのが見えました。時計は11:09を指しています。この地震で船橋市は震度4でしたが後に経験した揺れを踏まえると、現在の震度階級で震度5弱、当時だと5に近い4だったと思っています。
 揺れは長くは続かず、間もなく収まったと記憶しています。教室からは「早く帰れるぞ~」と言う男子の声も聞こえました(^^;。件のスピーカーは落下していませんでしたが揺れを考えた場合、仮に固定していなければ担任の頭上に落下した可能性が高かったと思います。
 男子の予想に反して授業は4時間目まで続き、その後下校となりました(冬休み間近なので短縮日課)。私は友人と中学校を出ましたが途中にある大手私鉄の駅に通じる道が大混雑しています。その後西船橋駅でJRが地震で運転見合わせになった事を知りました。

後日、担任と話をした折「(スピーカーを)固定しておいて良かったネ( ´∇`)」と言われましたが、これは前述した部分も含め色々な意味で今でも不思議で仕方ありません(^^;。

長文失礼しました<(_ _*)>。

  • [139]
  • 今日あった地震101 ~1755年リスボン地震・その3~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年11月 1日(水)05時54分27秒
 
「その2」の続きです。

また「カントの哲学」で知られるイマヌエル・カントはこの地震について3つの薄い書物を出版しています。若き日のカントは地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、地震の起こる原因に関する理論を構築し…

熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こる

…と考えたそうです。これは後に誤りであることが後に分かりますが、「『地震は神罰』と言う超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる、という仮定によって地震のメカニズムを説明しようとした、近代のもっとも初期の試みと言える」と資料にあり、ある人はカントが出版した地震についての書物は「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」と述べています。
 また、度々登場する宰相は、国中の全ての教区【注1】に…

☆地震はどのくらい続いたか。

☆例えば南北方向に強く揺れたというふうに、地震の揺れに特定の方向はあったか。建物の崩壊でも、特に一方向に崩れるということはあったか。

☆余震は何回感じられたか。

☆死者の数など、どのような被害があったか。

☆海水位は引くのが早かったか、それとも上昇が早かったか。海は普段の水位からどれだけ上昇したか。

☆動物が不審な振る舞いをしなかったか。

☆井戸や水穴には何が起こったか

…と言った内容の質問状(上記の質問はその一部)を送り、その回答は現在もポルトガルの国立公文書館(トーレ・ド・トンボ)に保存されていて、この回答のお陰で現代の研究者がそれを研究し、相互に参照して、大地震を科学的な見地から再現することが出来るのだそうです。宰相の考えた質問は合理的で、現在でも十分通用する質問だと感じます。客観的かつ科学的に地震の原因と結果を調べようとした宰相は、近代地震学の先駆者と評価されているとありました。

私は「その1」冒頭で…

>>92の「今日あった地震76 ~地震が歴史を動かす時~」で「安政江戸地震」を日本で起きた地震でその後の歴史に与えた影響が大きい地震としてを挙げましたが、このリスボン地震はそれを上回るものがあると思います。

…と書きましたが一連の文章を書き終えて、改めてその考えに変わりがない事を確認しました。
 もしも地震が発生しなければポルトガルの海外進出の勢いは衰えず、それがヨーロッパ諸国の力のバランスにも影響を与えたはずで、ひいてはポルトガルを含む各国の国内情勢にも影響した可能性があります。また、リスボン地震が発生しなければ精神面への影響(衝撃)も無く政治を含む現実と合わさり、後のヨーロッパ史(もっと言えば世界史)が私達が知るそれとは異なる軌跡を描き、現在に至っていたかも知れません。

3回に渡りリスボン地震を書いて参りました。
 リスボン地震の存在を知ったのはここ1~2年で、この文章は1ヶ月前から少しずつ作成していましたが、作成している中で地震の規模や被害等が東日本大震災に似ている事に気づきました(事実、文章作成の中で見た資料にはリスボン地震と東日本大震災には共通点が多数あると指摘する物もありました)。

また、文中に度々登場した宰相、セバスティアン・デ・カルヴァーリョ。文章を作成する中で私は彼にかなり惹かれました。
 彼が地震後に取った対応を見てみると、当時としては(日本的な表現で言うと)「神をも恐れぬ所業」もあると思いますが、そこに現在に通じるその時代らしからぬ合理性と先進性を感じます。また、各教区に送付した質問状は宰相としての責務と思っての事だと思いますが、それ以前に「元々その方面に興味があったのではないか?(はっきり言えばある種のマニア(^^;)」と思えてなりません。現在に宰相閣下が居て、HM様のサイトに書き込みをしていたとすると、HM様顔負けの知識でかなり詳細な書き込みをしてHM様をたじろがせていたかも知れないと感じました(^^;。タイムマシーンがあるならその時代に行き、宰相閣下に会って見たい気がします
 古代ローマのユリウス・カエサル【注2】は…

「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲することしか見ていない」

…と言う言葉を遺しましたが、宰相閣下もカエサル並とは行かないまでも当時としては「見たくない現実」が見えていた数少ない人なのではないかと感じています。
 あと、リスボン地震に限らず古今東西の歴史全般に言える事ですが、その場面に向いた人物が絶妙としか言えないタイミング&組み合わせで登場するな…。と、感じます。リスボン地震で言えば国王ジョゼ1世と宰相閣下の組み合わせで、ちなみにジョゼ1世の没後即位したマリア1世(ジョセ1世の娘)は宰相閣下と相性が良くなかったようで、彼を解任しています。もしマリア1世とジョゼ1世の登場が逆だったら歴史はどうなったか…。やはり、歴史の神様はすごいな。と思います。

3回に渡る超長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました( *・ω・)*_ _))ペコリ。


【注1】
教会が担当する地域(恐らく「学区」と同じだと思います)

【注2】
紀元前100年~紀元前44年。古代ローマの政治家・軍人・作家。実質的なローマ帝国初代皇帝。現代ヨーロッパの原型を作ったとも言われ、後年ルイ14世やフリードリヒ大王、ナポレオン1世と言った人達も尊敬し、憧れた人物。個人的にも古今東西の人物で1番だと思っています

  • [138]
  • 今日あった地震100 ~1755年リスボン地震・その2~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年11月 1日(水)05時53分33秒
 
その1の続きです。

地震を生き延びた宰相は地震直後、茫然自失だったであろう部下達に「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられ、すぐさま住民の救命と街の再建に取りかかります。
 彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮めると共に軍隊に「疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよ」と命令し、教会の意見や当時の慣習に反し遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖に運ばれ、水葬に付されました。その他に…

☆治安維持。街の周囲の丘の上に絞首台が作られ30人以上が処刑されたそうですが、一種のデモンストレーション効果を狙ったものかも知れません

☆軍隊に街を包囲させて強壮な者が街から逃げるのを防ぐ。これにより廃墟の撤去に多くの市民を動員する事が出来たそうです

…と言った手を矢継ぎ早に打ちます。震災直後は物資不足が問題となりますが、間も無くリスボン在住の外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告された為支援物資がリスボンに集まり、解消されました。

震災から間もなく、宰相と国王は建築家や技師を雇い、「大きな広場と直線状の広い街路」をモットーにリスボンの再建に取りかかります。
 資料には「王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にする事にこだわった」とありましたが、地震で得た苦い教訓がそうさせたのかも知れません。当時、「こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたとの事ですが宰相閣下は「いずれこれでも狭くなる」と答えたとか。このエピソードから、リスボンの再建は国王の意向を受けた宰相が中心に進められたのではないかと思いますが同時に、彼の先見性にも目を見張るものがあります。ちなみに現在のリスボンでは交通混雑があるようです。宰相閣下もまさか、遠い未来に自動車が登場すると思っていなかったと思いますが、その目には壊滅的被害を受けたリスボンが地震から復興を遂げ、今以上に発展する未来が見えていたのではないでしょうか? ちなみに宰相閣下のリスボンの都市(復興)計画はポルトガル各地の再建に応用されたそうですが、これは計画が比較的柔軟だった事を示唆しているように思います。
 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもあるそうで、資料の中にポンバル様式建築の模型の写真がありましたが壁を細かく区切り、その区画毎に「(日本で言う)筋交い」を入れたように見えました。建築に際し、まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられたそうです。こうして1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場となりました。

その1の冒頭に記したように、この地震は各方面に多大な影響を残しました。
 ポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度が増しました。そして国内では政治的緊張(後述)が高まると共に復興や政治闘争に力を振り向けた為か、それまでの海外植民地拡大の勢いは削がれる事になります。
 内政に関しては地震以前から宰相は王の寵臣であったものの、貴族達は彼を郷士の息子【注1】からの成り上がりとして軽蔑している一方、宰相の方も古い貴族達を腐敗しており実際的な行動ができない無能な集団として嫌い、両者の間では権力と王の寵愛を巡る衝突が絶えなかったようです(←この類の事は古今東西、よくある気がします)。
 その状況下で発生したのがリスボン地震。そこで有能な対応を示した宰相の権力が古い貴族層のそれを上回ました。貴族層は宰相を重用する国王に対する反感と恨みを募らせ、1758年には国王に対する暗殺未遂事件が発生します。これを機に宰相は貴族の一掃に乗り出して実権を掌握し、震災の原因をリスボンの人々の「罪」にあるとしたイエズス会【注2】をポルトガルの領土から追放し、財産を国庫に没収します。その後国王の信任の下、ポルトガルを独裁支配する事となりました。

そして、地震が与えた衝撃は20世紀にあったホロコーストのそれに対比される程の衝撃をヨーロッパの精神面にも与えました。
 当時、地震とは自然現象というより神罰であるとの考え(←日本や中国の考え方にも相通じるものがあります)が一般的だったようです。しかし多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが何故神罰を受け多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのか? 当時の哲学や神学で説明する事は困難だったようです。地震の発生した日がカトリックの祭日である諸聖人の日(万聖節)だった事もそれに拍車をかけました。
 この方面は私も詳しくないのでこれ以上の記述は出来ませんが、精神面への打撃は負傷者や建物への被害と異なり目に見えない無形のものですが、最も甚大かつ深刻な影響だったのではないでしょうか?



「その3」に続きます。

【注1】
資料には「父は小貴族」とありました。あるいは、新興貴族なのかも知れません。

【注2】
キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設。1540年にローマ教皇パウルス3世より承認される

  • [137]
  • 今日あった地震99 ~1755年リスボン地震・その1~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年11月 1日(水)05時52分5秒
 
おはようございます。

1755年の今日、9時40分。ポルトガル南部のサン・ヴィセンテ岬の西南西約200km付近を震源とする推定マグニチュード8.5~9.0の巨大地震=「(1755年)リスボン地震【注1】」が発生しました。この地震はアゾレス・ジブラルタル断層帯を震源とする海溝型地震でポルトガル・スペイン・モロッコ等西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れをもたらし【注2】、ポルトガルのリスボン(当時の人口27万5000人)を中心に物的・人的両面大きな被害を生じると共に、現実の政治から思想の広い範囲に大きな衝撃と影響を与えました。>>92の「今日あった地震76 ~地震が歴史を動かす時~」で「安政江戸地震」を日本で起きた地震でその後の歴史に与えた影響が大きい地震としてを挙げましたが、このリスボン地震はそれを上回るものがあると思います。
 1つにまとめて書くと非常に長くなってしまう為…

「その1」で地震の概要と被害状況、「その2」と「その3」で地震の与えた影響(「その3」は私個人の感想も交えて)

…と言う形に3つに分けて書いて参ります。
 ちなみに地震が発生した11月1日はカトリックの祭日である諸聖人の日(万聖節)ですが、その事が思想面に大きな影響を与える事に関係してきます(後述)。

当時の記録では揺れが続いた時間は3分半や6分とまちまちですが、揺れた時間が長かった点で東日本大震災に似ていると感じます。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、85%とも言われる多くの建物が崩れ落ち、市民は2万人が即死したと言われています。生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到(狭い土地で無計画に都市開発が行われた為、建物が密集し、市街には広場が無く狭い路地が入り組んでいた為)しますがやがて海水が引いてゆき、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々に露になり地震発生から約40分後、津波が押し寄せ、港や市街地を飲み込みテージョ川を遡ります。15mの津波はさらに2度押し寄せ、避難していた約1万人の市民もろとも市街地を飲み込みます。津波に飲まれなかった市街地で倒壊を免れた建物も、教会の蝋燭等が火元の火災で焼失し、貴重な絵画や初期大航海時代の記録等も消えてしまいました。この火災は5日間のに渡り続き、火災旋風も発生したそうです。現在のロシオ広場にあった当時最大の公立病院である
レアル・デ・トードス・オス・サントス病院が数百人の患者もろとも火災にのまれたと資料にありました。

リスボン以外のポルトガルの都市もリスボンのような惨禍に見舞われ国土の南半分、特に震源に近いアルガルヴェ地方の被害は大きく、南西端のサグレスは30mの津波に襲われたそうです。ポルトガル以外でもモロッコなど北アフリカの沿岸は高さ最大20mの津波に襲われ、イングランド南部やアイルランド西部にも3mの高さの津波が押し寄せて建物などを破壊したとの事で、ゴールウェイのスパニッシュ・アーチには津波で破壊された跡が今も残っているとの事です。また、カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残しているとの事です。
 ちなみに津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがあるそうで、これは震災に伴う動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものと資料にありました。

この地震による死者ですが、津波による1万人を含む5万5000人から6万2000人やリスボンで9万人とモロッコで1万人の合計10万人と言う数字が有りますが、後者は11/18・19に発生した地震と混同されているとも言われています。

国王一家は当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れ、祭日を過ごそうとしていた為奇跡的に無事でした。時のポルトガル国王ジョゼ1世はこの地震の後閉所恐怖症となってしまい、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移し、彼の没後に即位した娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかったのだそうです。

そして、時の宰相【注3】であるセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(【注4】。以下「宰相」または「宰相閣下」と書く場合有り)も王室同様に地震を生き延びました。ポルトガルにとって、国王一家が生き延びた以上に彼が生き延びた事が幸運だったのかも知れません。

その2に続きます


【注1】
1531年にも同名の地震が発生。「リスボン大地震」と言うと、今回取り上げた1755年の地震を指す場合が多いとの事です

【注2】
地震の揺れは遠くフィンランドからアフリカ北部まで感じられ、グリーンランドやカリブ海にまで揺れが及んだという記録もあるようです

【注3】
「総務大臣」と書かれている資料もありますが、遂行した事柄から現在の首相に相当すると思われます

【注4】
1699年~1782年。後のポンバル侯爵(1770年に授けられる)。宰相の他に外務大臣や戦争大臣を兼務していた事があるようです

  • [136]
  • 今日あった地震・番外編20 ~東京湾台風から100年~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年10月 1日(日)02時11分12秒
 
おはようございます。でしょうか。
 今回の一文は地震に関係ありませんが、この中から皆様が何らかの教訓を引き出していただければと思い、アップさせていただく次第です。<(_ _*)>。

100年前の1917(大正6)年今日未明、後に「東京湾台風」と呼ばれる台風が関東を通過、甚大な被害が出ました。 この台風は30日夜半に静岡県に上陸し10月1日未明に関東地方を南西から北東に縦断したのち更に東北・北海道を縦断、各地に集中豪雨をもたらし、2日にオホーツク海に抜けました。
 その被害【注1】は近畿以東を中心とする3府1道25県に及び、全体で…

死者・行方不明者1324人

家屋全壊43083戸

同流失家屋2399戸

床上浸水194698戸

…となっています。
 特徴的とも言えるのが2度(午前2時頃と同3時半頃)に高潮が発生した東京湾沿岸の被害が激しい事です。ちなみに東京通過時に観測された気圧が952.7ヘクトパスカルで、東京で観測された最低気圧として現在も破られていない数字のようです。
 具体的被害ですが、東京府【注2】の死者・行方不明者は563人で、京橋【注3】・深川【注4】・本所【注5】の各区と隅田川沿いの区部での被害が大きく、千葉県の死者・行方不明者は313人で浦安~市原一帯の被害が大きく、行徳から津田沼沿岸にあった塩田が壊滅的とも言える打撃を受けたと資料にあります。また、横浜港で3100隻以上の船舶等が風浪により転覆し多数の犠牲者が出て経済へのダメージも大きかった事や淀川で大洪水が発生したとの記述もあります。

東京湾沿岸にこれだけの被害を出す高潮が発生した理由として…

A.台風が東京湾の西側に上陸して最大43mの猛烈な南風が吹きつけた事で海水が陸側に吹き寄せられた

B.満月近く(月齢14.7)の大潮の満潮【注6】だった

…事等が挙げられます。地域によっては「大正6年の大津波」と言い伝えられており、津波に匹敵する凄まじい高潮だったと想像されます。また、この台風は進行速度が早く、急激に天候が悪化した為に避難出来なかったと思えるフシがありますが、これは後述します。

そして、この高潮は沿岸部だけではなく川を遡り内陸部も浸水させました。ちなみに各地で観測された水位は…

☆浦安4.1m

☆行徳3.9m

☆船橋2.5m

☆流山4.5m

☆関宿4.8m(大雨含む)

…となっています。また、横浜では4.12mの潮位を観測しましたが、これは現在も破られてない東京湾の最高潮位で、これを基準に東京湾の高潮対策は実施されているようです。

そして、前述した「台風の進行速度が早く、急激に天候が悪化した為に避難出来なかった」と言う話、これは私が目にした以下の記述からの推測になります。
 一つは当時中央気象台【注7】に勤務していた方が後に雑誌に書いた一文で、そこには「新聞記者諸君が気象台に呼ばれ、岡田先生【注8】から今晩夜半過ぎから大台風の襲来があるからと申し渡されましたが、この時まだ星空がきらきらして居りましたので、新聞記者諸君は半信半疑で社に帰られました」とあります。これは私も初めて目にした資料です。他に、台風襲来の前日の9月30日は午後から雨が時々降っていて警報は出されていたものの蒸し暑さも無い等、台風襲来の前兆らしきものは感じられなかった事や、10/1の午前2時から暴風雨になったと解釈出来る記述もあったとありました。
 前述したように私の推測ですが、「星空がきらきら」との記述から、記者氏が帰社するのに気象台を出た時刻は早くても9/30の18時~19時前後(どちらかと言えば後者)と思われ、暴風雨になったのが10/1の午前2時とすると7~8時間で天候が悪化した事になり、極端な的外れでもないと思います。
 また、暴風雨と停電が重なった為、避難が出来ないまま高潮に巻き込まれたケースもあったようで、これは現在にも通じる教訓だと思います。

この東京湾台風、私の家の母屋も経験しています。
 私が子供の頃、父が…

大正時代にあった台風で高潮が発生して海が間近【注9】だった我が家に流れ込み、祖父は天井にあった五寸釘に掴まり命拾いした

…と話していて、その五寸釘は数年前まで天井に残っていました。その時点では大正何年の出来事か分かりませんでしたが、後に大正6年にあった事を知りました。また、父の話と母屋の天井までの高さから、2m(少なくても1.8m)に迫る高さの海水が流れ込んだと思われます。

最近は地球の温暖化による「スーパー台風」の発生が懸念されていますが100年前に東京湾台風が発生した事実を考えるに、「第2の東京湾台風」が発生する可能性は否定出来ないと思います。
 超々長文、失礼しました<(_ _*)>。


【注1】数字には異説もあります

【注2】現在の東京都

【注3】現在の中央区南部

【注4】現在の江東区北西部

【注5】現在の墨田区南部

【注6】当日の満潮は午前5:21

【注7】現在の気象庁

【注8】当時の中央気象台長(現在の気象庁長官に相当か?)

【注9】大正6年当時、私の家から海岸線までの距離は数百m。父が子供の頃もそのくらいだったようです

  • [135]
  • 今日あった地震・番外編19 ~ニュースを見て~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 9月23日(土)17時57分36秒
 
こんにちは(^∇^)。

コミュニティー広場【#13】の[1671]でbks様が触れていた下記のニュース


タイトル:
東海地震 予知前提の情報取りやめへ 防災対策が転換(NHKニュース)
URL:
http://k.nhk.jp/knews/20170923/k10011153001000.html

※私のケータイでbks様のURLをクリックして記事を見ると文字化けしてしまいます(^^;(私のケータイが対応していないのだと思います)


私も今朝目にしました。
 以下はあくまで個人的な考えですが…

1.予知方法の偏り

2.「シロかクロか」で中間の無い事

3.私達の受け取り方

…と言った点に問題があるような気がします。

1つ目の「予知方法の偏り」とは、ハード面(機器観測)の予知重視でソフト面(宏観前兆)の予知を軽視(あるいは無視)している事です。これでは極端な話、何十年、何百年やっても予知は不可能ではないでしょうか?
 ただ、誤解しないでいただきたいのですが、私は「ハードがダメでソフトがいい」と言っている訳ではありません。当たり前ですが、ハードもソフトも100%完璧ではありません。>>99>>100>>101で取り上げた海城地震のように、「ハードとソフトが相互補完する形」であれば予知は可能だと思っています。勿論、それが出来る仕組みを作らなければいけませんが。

2つ目の「『シロかクロか』で中間が無い事」と言うのは天気予報の「注意報」に相当する物が無いと言う事です〔これについてはしばらく前(確か東日本大震災の前だったと思います)、「東海地震について『注意報』を作るか検討する(大意)」と言う趣旨のニュースを見た記憶があります〕。
 現状、警戒宣言発表が前提の防災対策を整備・実施している訳ですが、最初からは無理にしても途中で「注意報」を設け警戒宣言との2本立てとし、それに基づく防災対策が整備・実施されていたら…。との思いが有ります。

3つ目は2つ目とも重複しますし、「国民性」もあるかも知れませんが、私達自身が「予知は100%完璧ではなく、外れる事もある」との認識を持たなければいけないと気がします。勿論、100%完璧が理想ですが大自然が相手故、それは無理な相談だと思います。 ちなみに以前、イタリアで地震予知が空振りした際、住民に行ったアンケートでは空振りを受容する割合がそれなりにあったと本で見た記憶があります。


  • [134]
  • 今日あった地震番外編18 ~カスリーン台風の教訓~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 9月16日(土)03時59分55秒
 
おはようございます(*^-^*)。

現在台風18号が日本に近づいていますが、今年はカスリーン台風が来襲して70年になります。
 この台風は利根川の洪水が東京まで押し寄せた最新かつ最後の洪水で、大正以降では最大の洪水と記録されていて東京・千葉・埼玉・群馬・茨城・栃木の1都5県に甚大な人的【注1】・物的被害【注2】をもたらし、現在の利根川の治水対策の基本となる洪水の1つになっています。

70年前の今日、0時20分。埼玉県北埼玉郡東(ひがし)村〔現在の加須(かぞ)市〕新川通地先の利根川右岸堤防が340mに渡り決壊し、洪水が関東平野を洗い始めました。

地名に「新川通」とありますがここの利根川流路は江戸時代に掘られた真っ直ぐな物で、明治43年8月の大洪水(以下「明治洪水」)の時にも決壊をしなかったので比較的楽観視されていたそうですが、一つの大きな落とし穴がありました。
 何か大きな落とし穴かと言うと、明治洪水の際に上流にあった遊水地帯(恐らく水田や自然の湖沼等だと思います)が開発により、カスリーン台風の時には消滅していた事です。その為、明治洪水と異なり大量の雨が一気に利根川に流れ込んだのです。
 私達は過去の経験から天変地異が起きても「あの時大丈夫だったから今回も大丈夫だろう」と、思ってしまい勝ちですが、詳しく見れば「あの時」と「今回」では色々な面で状況が異なるはずです。それを「あの時大丈夫だったから今回も大丈夫だろう」と安易に判断して良いのでしょうか? 良いはずがありません。
 前にも書いたと思いますが「過去は過去」です。そして、「時には過去(の経験)を超える事」も必要だと思います。


【注1】
死者1100人。他に100人を超える行方不明者と2420人の負傷者

【注2】
家屋の浸水30万3160戸。同流出及び倒壊2万3736戸。同半壊7645戸。田畑の浸水17万6789ha

【備考】
上記被害は関東1都5県の数字ですが、カスリーン台風は東北地方にも被害が及んでいる為、両地方を合わせると被害は更に増えると思われます(別の資料に死者1077人・行方不明者853人・負傷者1547人及び住家損壊9298棟・同浸水38万4743棟・耕地流失及び埋没1万2927haの数字がありましたが、これは両地方合わせた数字の可能性が大だと思います)。

  • [133]
  • 今日あった地震・番外編17 ~キーワードは「余裕」(その2)~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 8月12日(土)08時44分11秒
 
再び<(_ _*)>。

「その2」では、戦争に関わる物にまつわる「余裕」を書いて参ります。地震とは関係ありませんが、どうかお付き合い下さい<(_ _*)>。

太平洋戦争で活躍した日本海軍の艦船の一つに「吹雪型」と呼ばれる24隻建造された駆逐艦群があります。
 基準排水量は1680tで当時の諸外国の駆逐艦と比較して10~15年先を行くような駆逐艦で「特型駆逐艦」の別名もあります【注1】。条約で駆逐艦の保有量を制限された日本海軍では重量を少しでも軽くしようと無駄な重量(=言い換えれば余裕)を削って【注2】いきました。設計自体も緻密で、余裕が無かったようです。更に就役後に加えられた18回の改修で兵装関連の重量が増加した事がこれに拍車をかけました。
 強度に問題のある船体に兵装等の重量物を搭載した格好で「頭でっかち」だったと思われます。これが後に悲劇を招く事になるのです。

1935(昭和10)年9月26日、海軍大演習に参加していた赤軍【注3】第四艦隊の駆逐艦群が平均風速35mの台風とそれに伴う高さ15m【注4】の波に遭遇し吹雪型駆逐艦の「夕霧」が艦首切断、「初雪」が艦橋より前部を切断すると言う事態を招き、他の艦船と合わせて54名の殉職者を出す惨事となりました。ちなみにこの事件は「第四艦隊事件」と呼ばれています。
 艦首や船体を切断する事態になった直接の理由は…

1.設計段階で想定していた以上の波が発生した事

2.構造重量の超過(船体構造に余裕が無かった)

…の2つだと言われています。後者については現在の私達にも色々な意味で大きな教訓になると思います。

「余裕」をキーワードに2回に分けて書いて参りましたが、イザと言う時への備えもある意味での「余裕」になるのだと思います。

尚、2つの文章は手元にある資料を参考に書きました。


【注1】
文中では「吹雪型」で統一

【注2】
設計段階でkg単位の重量管理が行われていたそうです

【注3】
太平洋を進攻してくるアメリカ海軍を想定(ちなみに日本海軍側は「青軍」)。

【注4】
「波の高さが50mあった」と証言する参加将兵がいたと以前本で読んだ記憶があります


  • [132]
  • 今日あった地震・番外編16 ~キーワードは「余裕」(その1)~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 8月12日(土)08時42分59秒
 
おはようございます(`・ω・´)ゞ。

昨年の熊本地震発生直後、ある地震関係のブログに…

今の日本の耐震基準は短期間に強い地震が連続発生する事を想定していない(だから、熊本地震の被害が拡大した)

…と言う趣旨の指摘があり、同時に1階に窓を大きく取る住宅【注1】についても耐震の面で疑問(開口部が大きければそれだけ強度的に弱くなる。)を呈していて、どちらも「ナルホド」と思いましたが、見方を変えれば上記2つの事は「余裕」がキーワードになる気がします。

地震とは直接関係ありませんが「余裕」と言う視点で見た場合、いくつかの事例を挙げる事が出来ます。それを2回に分けてアップしたいと思います。

1つ目は>>58にアップした「今日あった地震44 ~関東大震災②~」で触れた利根川本川堤防復旧についてです。
 文中に…

ちなみに堤防が先人達の先見の明で計画高水位【注2】より2.1~2.3m高く造ってあった事に加えて、その上に盛り土もあったのでその余裕分から土砂を採取し、応急復旧工事の資材としたそうです

…と書いていますが、上記を書くにあたり参考にした資料【注3】中の座談会の項目に改めて目を通したところ、1900(明治33)年から始まった利根川改修工事【注4】に際し、「当時の首脳部の中に設定した計画高水流量【注5】ではダメだと何となく思っていたのではないか」とあり、その証拠としてある場所に堤防を作る際、計画より少なくとも2m位大きく(高く)作り、更に1mほど土を余分に盛って大きな堤防にした事を挙げています。これは、前述した「計画高水位より2.1~2.3m高く造ってあった事に加えて、その上に盛り土もあった」ともほぼ符合します。
 また、資料の中には「先輩が遺してくれたゆとり(具体的には利根川本川のゆとりある河幅や遊水池)があるから現在の利根川治水が成り立っている」と言う趣旨の一節がある寄稿文もありました。

番外編17に続きます。


【注1】
鉄道車両も窓の大きさは車体の強度に関係してくるので設計時に気を遣うところだそうです

【注2】
設計上堤防が耐えられる水位の高さの上限。ただし、実際の堤防高さには余裕があるので計画高水位を超えた事が即決壊に繋がる訳ではありません

【注3】
「利根川百年史〔1987(昭和62)年11月24日建設省関東地方建設局(当時)発行〕」

【注4】
1900(明治33)年から1930(昭和5)年の間に実施された世界的に見ても有数の大規模治水工事。関東大震災時には第1期(河口~佐原間42km)は既に竣工し、第2期(佐原~取手間52km)と第3期(取手より上流110km)が工事中

【注5】
基本高水流量(人の手をを加えていない川に想定している降水量の雨が全て流れ込んだ場合に流れると予想される最大流量)から各種洪水調節施設(ダム等)での洪水調節量を差し引いた流量


  • [131]
  • 今日あった地震・番外編15 ~関門トンネル水没~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 6月28日(水)06時20分14秒
 
おはようございます。

今年も九州等で梅雨の大雨が続いていますが、64年前の1953(昭和28)年の6/25~29にも後に「昭和28年西日本水害【注1】」と呼ばれる事になる梅雨前線の集中豪雨による水害が発生し、甚大な被害が出ました。
 その時、本州と九州を結ぶ関門トンネルが水没する事態となりましたが、水没直前にあったある出来事に私の目が留まりました。これは以前、鉄道雑誌で概要は知っていたのですが最近になり、ケータイで色々見ている中で詳しい状況を知りました。

話は64年前の今日に遡ります(ちなみに日曜日だったそうです)。
 (午前)11時過ぎに降り続く雨と土砂崩れでせき止められた近隣を流れ川の水が合流し、関門トンネルに流れ込み始め、ほぼ同時刻に巡回中の門司保線区員が関門トンネルの掘割を囲う防水壁の架線鉄柱付近にある切り欠きから架線をかすめるように噴出し始めた濁水を発見して通報します(11:02)。通報を受けて発車予定だった上り臨時特急「かもめ」の発車を中止し、下り列車の進入も止めるべく下関駅に連絡しますが、運悪く10:57に約800名の乗客を乗せたEF10が牽引する下り列車が下関を出発し関門トンネルに入っていました。
 下り列車の機関士は門司側出口防水壁の切り欠きからの落水に気付き、公安職員の停止の指示を受けて11:08頃出口の約70m手前で列車を停車させます。保線区員が土嚢を積んで切り欠きを塞ごうと試みますが思うように塞ぐことができず(←かなりの勢いだったのだと思います)、流入を止める事が出来ません。
 もしパンタグラフを上げたまま落水箇所を通過した場合、大変な事になるのは目に見えています。機関士は電話で指令室の指示を仰ぎます。トンネル自体の浸水を懸念した指令室から強行突破の指示が出され、11:17頃から脱出を開始しました。
 列車が停止した場所から落水場所までは数十m程度しかない上、急な上り勾配の途中で列車【注2】の引き出しは容易ではなかった為、機関士は一旦列車を後退させます。機関士はEF10の前部パンタグラフを下げ、後部パンタグラフを上げた状態で列車を発車させ勢いをつけると落水箇所直前で後部パンタグラフを下げて落水箇所を惰性で通過し直後に前部パンタグラフを上げて突破し、11:24頃無事に門司駅に到着しました。ちなみに機関士を含む何人かが後に国鉄総裁表彰と総理大臣表彰を受けたそうです。
 僅かな判断ミスが取り返しのつかない結果を招きかねない極限の状況下、冷静沈着な判断&行動で列車と乗客を救った機関士を私は凄いと思います。以下は私の想像ですが、この機関士は経験豊富なベテランだったのではないかと思います。そして、上記のエピソードを通じて「最後はやはり人間だ」と言う事を再認識しました。


【注1】
気象庁が正式命名していない為、地域によって「白川大水害」や「6.26水害(以上熊本県)」、「北九州大水害(北九州市)」等と呼称されています。

【注2】
下り列車の編成両数の記録はありませんが、乗客数及び当時の客車の定員を考えた場合、少なくとも10両前後だったのではないかと思います。

  • [130]
  • 今日あった地震・番外編14 ~ここまで出来れば…~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 6月 5日(月)07時39分19秒
 
おはようございます(*^-^*)。

徳川義直(よしなお。1601年~1650年)。徳川家康の9男で徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)を含む諸大名の中でも筆頭とされる格式を持つ尾張徳川家の初代藩主です。

生年を見ての通り、彼は関ヶ原の戦い後に生まれていますが戦場に立った経験【※1】もあります。
 その経験からか、城内で寝る時にも脇差【※2】を常に手元に置き、寝返りを打つごとに手元に持ってきていたそうで、更に目を開けながら絶えず手足を動かしつつ、漢文の一節を時々はっきりと寝言で言っていたと本で目にしました。
 本当なのかと言う疑問は…

/(-_-/)(\-_-)\オイトイテ

「イザと言う時への備え」と言う視点で見れば、見習うべきところがあると思います。ここまで出来れば御立派。と言うか、「究極の危険予知(KY)」かも知れません。

【注1】
大坂冬の陣で初陣し、続く大坂夏の陣にも参戦

【注2】
武士が差す刀のうち、小さい(短い)方の刀。

  • [129]
  • 今日あった地震98 ~鎌倉大地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 5月19日(金)06時37分41秒
 
おはようございます(*^-^*)。
 1293(正応6・永仁1)年の今日(旧暦では4/12【注1】)、関東地方で後に「鎌倉大地震【注2】」と呼ばれる地震が発生しました。

 被害としては…

☆死者2万3034人(異説有り)

☆鎌倉建長寺(倒壊後炎上)や大慈寺(鎌倉市にあったお寺)を始め多数の神社仏閣や建造物が倒壊

☆土砂災害等も発生

☆由比ヶ浜の鳥居付近では140人もの死体が転がり、幾千もの死者が出た

…と言った記録が有ります。最後の文中に「幾千もの死者が出た」とあるのは、直前にある文章から鎌倉の状況ではないかと推測されます。
 また、この地震による混乱に乗じて鎌倉幕府執権の北条貞時が幕府内で専横を振るっていた平頼綱父子を討伐する事件〔平禅門(へいぜんもん)の乱〕も発生しています。そして朝廷では、地震の発生やこの後発生した干ばつ等を重視し同年9月6日(旧暦では8月6日)に永仁への改元を行いました。

 震源やマグニチュードは…

A.相模トラフ震源のM8級(2008年政府地震調査委員会)

B.相模トラフと分岐断層の国府津(こうづ)~松田断層帯が連動(2014年政府地震調査委員会)

C.相模陸部の丹沢付近で深さは極浅。推定M7.1

…等の説がありますが、2007(平成20)年に三浦半島小網代湾の堆積物中にこの地震により発生した大津波の痕跡が見出だされた事(注3)や土砂災害が発生した事。及び、最近知った「ある事実」から、Bが妥当ではないかと考えます。

最後に、前述した「ある事実」に関する事に触れて終わりたいと思います。
 浦安市に「猫実(ねこざね)」と言う地名があります(現在は猫実1~5丁目が存在)。私も場所的に近く(名前は以前から知っていました)、地震情報等で「浦安市猫実」を目にする機会もあるので親近感があります。
 今年1月、近所の本屋に行った際、千葉県の地名の由来に関する事を書いた本を見つけて手に取り、パラパラ見ていたところ「津波」の文字が目に入り、見返したところ、「猫実」の名前の由来に触れていたので早速購入して帰宅し、読んでみました。
 そこには…

永仁の大津波に遭い、甚大な被害を被った部落の人達は津波に備えて神社付近に堅固な堤防を築き、その上に松の木を植えた。それを見た部落の人達は「今後はどんな大きな津波が来ても、この松の木の根を越えるような事はない」と完成を喜んだ。「この松の木の根を波浪(←恐らく津波)が超さじ」との意味から「根越さぬ」と言い、いつの間にか「猫実」となった(要約)

…とありました。これは私も初めて知った事で、この文章を書くにあたりウィキペディアを見たところ同じ趣旨の事が書いてあり、かつては「猫真(あるいは猫眞)」と呼ばれていた事も知りました。これは前述Bが震源である事を補強(裏付ける)する事ではあります。
 しかし、機械化が進んだ現在でも「堤防を築く」事は大事業。人力だった当時にすれば現在以上の事だったと思います。それでもそれを選択したと言う点で、どの位の高さの「大津波」が来襲したのかと考えてしまいます〔これはこれからの防(減)災にも繋がり得る話なので〕。
 私が見た資料のうち、東京湾【注3】最奥部で最も高い津波を記録したのは元禄地震(>>18参照)で…

☆品川、浦安で2m、
☆横浜で3m
☆稲毛では3~4m

…となっています(ちなみに関東大震災における東京湾内の津波の高さは1m未満。東日本大震災では船橋で最大2m40cmの津波を観測)が堤防を築いた事を考えると憶測の域は出ませんが、浦安付近で最低でも3~4mはあったのではないかと想像します。

上記の文章はウィキペディア及び手元にある資料を元に作成しました。


【注1】発生日を5/27(旧暦では4/13)とする資料も有り

【注2】
他に永仁の関東地震・鎌倉強震地震・永仁鎌倉地震・建長寺地震と言った名称も有り

【注3】
湾口が狭く奥に拡がる地形&水深も比較的浅いので元々津波はあまり高くならない傾向にある反面、南に湾口が開いているので津波や高潮の影響を受けやすく、津波は岸に反響して落ち着くまで時間がかかる傾向が有るそうです(東日本大震災の津波もそうだったとテレビで見ました)

  • [128]
  • 今日あった地震97 ~サンフランシスコ地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 4月18日(火)06時55分22秒
 
おはようございます。

1906(明治39)年の今日、5時12分。後に「サンフランシスコ地震」と呼ばれるマグニチュード7.8の地震が発生しました。
 記録によると「激しい震動が約1分間続く→一旦弱まった後強い震動が再び起こる→最初の震動が始まってから2分30秒程で終息」したそうですが、「一旦弱まった後強い震動が再び起こる」と言う表現から、東日本大震災の時のように時間を空けて複数(2つ)の地震が発生した気もします。
 発生当時、震央はサンフランシスコの北西60km程のところにある離れたオレマ〔地震によりサンアンドレアンス断層が最も大きく(6.4m)動いた場所でもある〕と考えられていたようですが後年、地震発生時全世界の地震計(96基有り大半が記録)に記録されていた震動をもとにサンフランシスコ南西のデイリーシティのマッセルロック沖約2kmの海域を震央とする論文も発表されています。

被害はサンアンドレアンス断層北部(長さ430km)に沿った数百kmの細長い地域に集中したものの、揺れ自体ははオレゴン州からロサンゼルス、内陸のネバダ州中央部まで広範囲で感じられたそうです。
 地震によりサンフランシスコ市内では充分な耐震強度を備えていなかった建造物の多くが倒壊し、少なくとも50ヶ所で火の手が上がったものの水道管が破損していた為満足な消火活動を行えず火は3日間燃え続け、中心地にあった商業地区は焼け落ち、サンフランシスコの3分2が焼失したと資料にありました(中心部6.5km四方が壊滅したとも)。資料には陸軍が残っている建造物をダイナマイトで爆破して防火帯を作ったともありましたが、後の地震でも繰り返される事になる地震による火災と消火用水の確保は「古くて新しい問題」だと痛感させられます。
 この地震による被害は異説も有りますが最大値で…

☆死者約3000人(公式発表は500人)

☆家を失った人30万人(当時のサンフランシスコの人口は約40万人)

…と、なっています。
 この地震では日本が色々な救援物資を現地に送ったようです。そして、17年後に発生した関東大震災ではサンフランシスコ地震の時のお返しとばかりにアメリカが率先して日本に救援物資を届けたと本か何かで見た記憶がありますが、東日本大震災の時にアメリカ軍が実施した「トモダチ作戦」を思い起こさせます。

この地震は1989年10月17日にサンフランシスコで発生した「ロマ・プリータ地震(M6.9あるいは7.1。死者62人)」に関する報道に関連して、「サンフランシスコを過去に襲った大地震」として報じられ、初めて知った地震です。

ちなみにこの地震を発生させたサンアンドレアンス断層は典型的な横ずれ断層で、時期は失念しましたがNHKの特番で私はその存在を知りました。その際、「パークフィールド」と言う場所ではサンアンドレアンス断層を横切る形で各種機器を設置して常時観測し、地震の直前予知を目指していると話していた記憶があります。
 また、この断層では4000万年前の地層がおよそ600km離れているそうですが、4000万年間にサンフランシスコ地震クラス(ズレ幅3m)の地震が200年間隔で発生すると仮定すると、20万回発生した計算になるのだそうです。そして、「4000万年後にはロサンゼルスのある岩盤が北上してサンフランシスコにくっついてしまう」と私の持つ本に出ていました。もっとも、「4000万年後まで、ロサンゼルスやサンフランシスコがあるの?」と言うツッコミはありますが…(^^;。

この文章はフレッシュアイペディアと私の手元にある資料。及び、私の記憶を元に作成しました。


  • [127]
  • 今日あった地震・番外編13 ~経験(教訓)の生かし方~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 4月 2日(日)15時30分27秒
 
こんにちは。

「経験(教訓)の生かし方」。
 私もこのスレで何度が触れて(良い例で>>4>>51>>111。良くない例で>>41>>110。両方の性格を持つ例で>>41)いますが一筋縄では行かない、難しい事だと感じています。

以下は個人的な意見ですが…

「今までこの辺りで大地震は無いけど、将来は発生するかも知れないから備えよう」

…と言うように「過去の経験(教訓)にこだわらない」、言い替えると「過去の経験(教訓)を超える」事も必要だと思っています。

  • [126]
  • 今日あった地震・番外編12 ~点から線、そして面へ~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 3月25日(土)20時57分46秒
 
こんばんは(^^)。

私の会社では安全に関する月刊の業界誌(以下「業界誌」)を毎月2冊食堂の掲示板に置く他、現場を中心に回覧しています。私は回覧する前に食堂で見かけるとちょっと寄り道して即読むクチ…

【掲示板】(..) ナルホドー

…ですが色々参考になります。どちらの記事にも自然災害に関する連載があり、時には地震に関する内容の事もあります。

3月号では片方の業界紙が「津波の避難」を取り上げていましたが、その中に「釜石の奇跡」に関する文章があり、その経緯にも触れていました。これは私も初めて読む事で興味深く目を通し、コピーも取りました。
 この話の舞台は岩手県釜石小学校。同校では「様々な震災対策のパターンを想定し、どのような場合でも自ら考えて動けるようにすると共に、授業を受けた子達が親になり、またその子に防災教育をする(要約)」事を目指して20年をかけ、津波防災教育を実施していたそうです。そして、教育を継続中の10年目に東日本大震災が発生、津波が来襲しました。
 最初に中学生達が勇気を振るって高台に逃げ始め、一度は先生の指示で屋上に避難した小学生達も中学生が逃げているのを見て「高台に逃げよう」と先生に促して中学生と合流、高台に移動します。更に地域のお年寄りや住民の皆さんも「あれ、中学生が逃げている」と逃げ出したのだそうです。
 筆者は「釜石の奇跡」を挙げた上で防災教育を持続して行った事から言える一番の成果として…

「まぁ大丈夫だろう」ではなく、「中学生が逃げるなら自分達も逃げた方がいいだろう」と地域全体(の意識)が変わっていた事

…を指摘していましたが、10年間の地道な防災教育が児童・生徒を通じて地域に浸透し、皆が共通認識を持ったと言う点が重要だと思います。
 そして、防災は最初が「点」でもそれが「線」になり、最終的に「面」になるのが理想だと感じた次第です。

  • [125]
  • 今日あった地震・番外編11 ~もしもあの時…~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 3月12日(日)09時21分26秒
 
おはようございます。

東日本大震災の発生から昨日で6年になりました。
 私は現場(工場)勤務ですが東日本大震災直後、現場勤務の人の中で「東日本大震災が発生した時、機械が稼働していたらどうなっていたか?」…

 (*´・д・)(・д・`*)ネー

…と言う事が話題になりました。>>82>>83を見ていただくと分かるのですが、あの日、機械はたまたま全て停止していたのです。
 機械は今も稼働していますが、稼働中に強い地震が発生したらどうなるのか…。全く想像がつかず、恐いものがあります(-_-;)。

  • [124]
  • 今日あった地震96 ~3.11の体験(4)~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)20時13分49秒
 
こんばんは。

3年前の3/11に「3.11の体験」のタイトルで私を含む3つの体験談をアップしましたがその後、1つの体験談を聞く事が出来ました。
 東日本大震災発生直後に市原市のコンビナートでガスタンクが爆発炎上した火災。テレビでも報じられたの記憶されている方も多いと思います。私が勤める会社にその場に居合わせた方(以下「体験氏」)が一時勤めていて、仕事の合間に当時の状況を話してくれたのです。御本人にアップしても良い旨の了解を得ていましたが、肝心の私がアップする事をすっかり忘れていました(^^;。今年1/22に放送されたNHKスペシャル「MEGA CRISIS 巨大危機~脅威と闘う者たち~
第4集 “地震大火災”があなたを襲う ~見えてきた最悪シナリオ~(以下『Nスペ』と表記)」の中でそれに関する事を取り上げていたので、それを織りまぜながら書き進めたいと思います。

まず、出火原因ですがNスペの中で…

検査の為にガスを抜いたタンクの中に水(比重はガスより重い)を入れていたが、地震の揺れでタンクの支柱が重みに耐えきれずに壊れて配管に亀裂が生じ、そこから漏れたガスに引火した(大意)

…と、述べていましたがこれは私も初めて知りました。

体験氏は東日本大震災当日、アルバイトでそこに居たそうで、地震直後に帰宅するよう指示が有り出たそうですが出る際、後に爆発するタンクの脇を通ります。その時点でタンクは既に傾いていて体験氏は「『ヤバイかも…』と思った」と話していましたが、Nスペの話とも矛盾はありません。
 その後体験氏は徒歩で1km程離れた(注)駐車場に向かいますがその途中で爆発音を2回聞き、途中にあった家の窓ガラスは全て粉々になっていたと話してくれました。ただ、駐車場そのものに関しては話していないので車のガラスを破壊する程の衝撃波は届いていないと推測出来ます。
 この火災で、ガスタンクが爆発する瞬間の映像をテレビで見た方も多いと思いますが、Nスペではその映像を見た専門家が爆燃【注2】が海に向かって発生した事を指摘し、方向が異なっていたら更に被害が拡大していたと話していました。更に、津波で操船不能になったタンカーが岸壁に乗り上げたり衝突して流出した油に引火し、火災になる恐れがあると専門家が指摘していました【注3】が、確かにその通りだと思いました。


【注1】爆発事故が発生した場合に備え、駐車場が離れていたそうです(被害を局限する為)

【注2】爆発の中で膨張速度(炎の伝播速度)が音速に達しないものの事。ちなみに音速を超える激しい爆発は「爆轟(ばくごう)」と言うそうです

【注3】東日本大震災でも津波で操船不能になった船舶が港内を漂流した事例有り

  • [123]
  • [121]訂正・2

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 1月 3日(火)11時06分14秒
 
昨日の文章アップ後、再度確認したところ、以下の間違いがありましたのでお詫びして訂正いたします。

〔訂正1〕
(誤)合計619回の地震をノートに記録していて、そのうち私を含む家族が揺れを感じたのが『434』回でした。

(正)合計619回の地震をノートに記録していて、そのうち私を含む家族が揺れを感じたのが『431』回でした。


〔訂正2〕
(誤)
☆東日本大震災発生後…5年9ヶ月で443(『355』)回

(正)
☆東日本大震災発生後…5年9ヶ月で443(『352』)回


失礼しました<(_ _*)>。

  • [122]
  • [121]訂正

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 1月 2日(月)18時26分49秒
 
文の中ほどに「(中写真)」とありますが写真は2枚です。なので、正しくは「(中写真)」ではなく「(下写真)」となります。
 お詫びして訂正いたします<(_ _*)>

  • [121]
  • 今日あった地震・番外編10 ~地震ノート~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2017年 1月 2日(月)18時17分14秒
 
こんばんは(*⌒―⌒*)。お正月2日目の夜、いかがお過ごしでしょうか?

このスレ等で時折触れていますが、私は「地震ノート(以下『ノート』)」を書いています。何で書こうと思ったのか記憶していませんが、現在2冊目で小さい方が1冊目です(上写真)。2冊目が大きいのは沢山書く為…。ではなく、単に大きさを間違えただけです(^^;。もっとも、そのお陰で色々書き込む事が出来ていますが(^^ゞ。
 このノートは「私を含む家族が揺れを感じた地震」と「日本であった震度5弱以上の地震」を書いていて…

1.発生日時と地震名(命名された場合)

2.震源位置(北緯・東経)

3.震源深さ

4.マグニチュード

5.最大震度

6.船橋市を中心とした震度

7.備考(特記事項)

8.余震の有無

…を書いていますが場合により6以下を省略する事もあります(中写真)。「7」には津波情報(注意報・警報の発表・解除及び最大波高等)や前兆現象(と思われる事)等を主に書いています。

1冊目の一番最初に書かれている地震は20049.5(日)の19:07頃、紀伊半島沖(潮岬の東南東110km)を震源とするM6.9の地震で、書き始めて12年3ヶ月が経過した事になります。
 そこで、記録し始めてから昨年大晦日までにどれだけの記録をしたのがチェックしたところ、合計619回の地震をノートに記録していて、そのうち私を含む家族が揺れを感じたのが434回でした。
 また、記録を重ねる中で地震が頻繁に発生する場所がある事にも気付かされました。具体的には「千葉県北西部」「茨城県沖」で、上記よりは少ないものの「千葉県東方沖」や「茨城県北部及び南部」でもよく発生している気がします。
 また、東日本大震災の前後で比較してみると…

☆東日本大震災発生前…6年半で176(家族体感79)回

☆東日本大震災発生後…5年9ヶ月で443(355)回

…となっていて、活動的になった事が裏付けられたように思います。


  • [120]
  • 今日あった地震95 ~今市地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年12月26日(月)03時44分14秒
 
おはようございます(*^-^*)。

1949(昭和24)年の今日、後に「今市地震」と呼ばれる事になる地震(内陸直下型地震)が栃木県今市市(現・日光市)の鶏鳴山付近を震源として発生しました。
 この地震は8時17分 発生のM6.2と8時24分発生のM6.4の2つの地震の総称で、マグニチュードだけで見れば「前震-本震」のようにも見え、場所は違いますが今年発生した熊本地震に似ていると感じます。
 今市市付近では震度6相当の揺れを観測し、余震は翌年3月19日まで続いたそうです。

この地震による被害は最大で…

☆死者10名・負傷者163名

☆全壊家屋908棟・半壊家屋5301棟(注1)

☆60数ヶ所で山崩れ(崩壊面積9.34平方km)

…となっています。
 また、「写真で見る東武鉄道80年 -明治、大正、昭和三代の変遷-」の中に「大きな被害が続出した連年の天災」としてカスリーン台風(注2)・アイオン台風(注3)・キティ台風(注4)と並んで挙げられており、局地的かも知れませんが少なからぬ被害があった事が想像されます。

尚、この文章はウィキペディア及び手元にある資料を参考に書きました。


注1:全壊家屋290棟・半壊家屋2994棟との記述も有り

注2:1947(昭和22)年9月に日本に接近した台風。決壊した利根川の濁流が東京に到達した最新(かつ最後)の洪水。

注3:1948(昭和23)9月16日に房総半島に上陸した台風。東海・関東・東北地方で暴風雨となり大きな被害。

注4:1949(昭和24)年8月31日に小田原市付近に上陸した台風。東京湾沿岸で高潮による被害甚大。


  • [119]
  • 今日あった地震・番外編9 ~北陸トンネル列車火災事故の教訓~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年11月 6日(日)00時58分21秒
 
今日あった地震・番外編9 ~北陸トンネル列車火災事故の教訓~

おはようございます。

1972(昭和47年)の今日午前1時過ぎ、北陸トンネル(全長13870m)を走行していた大阪発青森行きの客車急行「きたぐに」の食堂車から出火し一酸化炭素中毒により死者30人、負傷者714人を出す大惨事となりました(以下「事故」又は「きたぐにの事故」と記述)。

この事故は2004年6月15日に放送されたNHKの「プロジェクトX(以下『番組』)」でも取り上げられていて私も見ました。
 地震とは直接関係ありませんが、前述のテレビを含む事故に関する事を色々見ていて地震等の自然災害にも通じる教訓を感じたのでアップする事にした次第です。

番組では地元消防が国鉄に文書を出したものの取り合ってもらえなかった(私には国鉄が黙殺したと映りました)と言う場面がありましたが最近になり、「開通5年後に敦賀消防署が国鉄に対し、北陸トンネルの火災時の対応について具体的な申し入れ(トンネルを通過する列車に救命補助具や呼吸器を備える事)を行っていた」と言う事実と、それに対して国鉄が「『電化トンネル(北陸トンネルは交流電化)で火災事故はあり得ない』とする国鉄の建前を守るために、これら消防からの要望、申し入れは一切封殺した」事実を知りました。
 私が注目したのは国鉄の「電化トンネルで火災事故はあり得ない」と言う考え方と、それに沿った対応です。
 上記の言葉から「電気機関車や電車から出火する事は無い」と当時の国鉄が考えていたように感じますが当時の「きたぐに」は前述したように客車急行。そして、出火原因は食堂車の喫煙室長椅子下にある電気暖房装置の基準違反の配線と配線の緩みによるショートでした。また、1951(昭和26)年の桜木町事故【注】では戦時設計【注2】車両(モハ63形)ながら電車が炎上し、多数の死傷者を出していると言う事実が有りました。

もうひとつ、この事故が大惨事になってしまった要因として、「トンネル内で列車が停車した事」があります。その指摘は事故当時もあったようです。ただ、当時の国鉄には火災発生時には列車を速やかに停車させる取り決め(前述の桜木町事故を機に定められた)があり、殉職した「きたぐに」の機関士はこれを守ったようです。
 この事故の3年前の1969(昭和44)年、北陸トンネル内を通過中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生しましたが列車乗務員の機転で当時の規程を無視して列車をトンネルから脱出させ速やかな消火作業を可能とし、結果的に死傷者を出す事はなく当時のマスコミも称賛しました。しかし、国鉄上層部はこれを「規程違反」として乗務員を処分(きたぐにの事故後撤回)し、運転マニュアルの見直しを行いませんでした。運転マニュアルが改められたのはこの事故後の各種実験【注3】を経てからでした。「きたぐに」の機関士の脳裏には、この一件があったのかも知れません。

前述の2つの事の中に私は「固定観念にとらわれた思考の恐さ」を見ます。
 ここまで書いて、「ハインリッヒの法則」を思い出しました。御存知の方もいらっしゃると思いますが、「1つの重大(休業や死亡)災害の下には29の不休業(赤チン)災害があり、更にその下には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在する」と言うもので、これを当てはめれば…

「きたぐに」の事故=重大災害

「日本海」の事故=不休業災害【注4】

地元消防の申し入れ=KY(危険予知)

…になると思います。
 KY(これはハインリッヒの法則外ですが、仮定ヒヤリ・ハットと位置付けて良いと思います)や不休業災害のあった時点で国鉄が手を打っていればこの事故は起きず、仮に起きたとしてもここまで大惨事にならなかったのではないでしょうか?

そして、この事故に限った事ではありませんが日本の場合、色々な指摘があるにもかかわらず何か起きるまで対策を取らず(と言うより、取る事に消極的)、それにより起きた「何か」が重大である事があまりにも多過ぎる気がしてなりません。そして、その悪しき傾向は今もある気がしてならないのです。

超長文、失礼しましたm(_ _)m。


【注】1951(昭和26)年4月24日に京浜東北線桜木町駅構内で切断し垂れ下がった架線が進入してきた電車のパンタグラフに絡まり火災が発生(先頭車全焼・2両目半焼)し、焼死者106人・重軽傷者92人を出した事故

【注2】「戦争が終わるまでの数年間もてば良い」という思想の下で戦争中に設計・製造された物。功罪両方あるものの安全性や耐久性を犠牲にしている面が強い

【注3】きたぐにの事故が発生した年の12月に大船工場内にて停車状態で、翌年には非トンネル区間、翌々年にはトンネル区間での火災実験(後2者は走行して)を実施

【注4】「日本海」の事故も列車火災ですが、死傷者が無かったので不休業災害としました

  • [118]
  • 今日あった地震・番外編8 ~世界津波の日~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年11月 5日(土)08時12分17秒
 
おはようございます。

今日は昨年の国連で承認されて初の『世界津波の日』。
 1854年11月5日(←旧暦。新暦では12月24日)に発生した安政南海地震の際、和歌山県の豪商(庄屋とも)が村人を救う為に積んであった稲に火を点けた故事に由来すると今朝の新聞に出ていました。ちなみに日本は今日を「津波防災の日」としているそうです。
 新聞の中には東北大学が過去400年間に世界で発生した津波の解析結果を公表したとの記事もありましたが、そこには解析をした方の…

「人々に津波の記憶が残っていない地域でも、400年の歴史をさかのぼると強い津波が襲った地域がある。世界の広い範囲で備えを進めていく必要がある」

…と言うコメントも出ていました。

今年に入り熊本・鳥取県中部と内陸直下型地震が続いていますが、津波を引き起こす可能性がある「海溝(海洋)型地震」にも引き続き注意すべきだと思います。


〔参考〕
タイトル:
西船橋マンの“今日あった地震13 ~安政南海地震~”
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/17


  • [117]
  • 今日あった地震・番外編7 ~先を見据えた目・その2~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年 6月19日(日)20時08分26秒
 
こんばんは(* ^ー゜)ノ。

少し前、くもの巣【#2】にも書いた「ブラタモリ。昨日は横須賀が舞台でした。
 番組の冒頭に出る旅のお題は「なぜ横須賀は“要港(ヨーコー)っスカ”!?」。ダジャレが入っている事は…

/(-_-/)(\-_-)\オイトイテ

番組ではタモリさんがアメリカ軍の基地に残る日本最古の石積みのドライ(乾)ドック(以下「ドッグ」)に潜入します。
 同行した専門家氏の話によるとこのドッグはフランス人技師が設計した物で、使用した石は耐久性が高い安山岩(←確か伊豆産だったと思います)だったそうです。更に、設計途中で日本は地震が多い事に気づいたフランス人技師が建設場所を当初予定していた入江を埋め立てた所から強固な地盤(410万年前の地層)の所に変更したそうです。
 タモリさんも設計・建設をしたフランス人技師の先見の明に感心していましたが私も同感でした。実際、長年の風雪に耐え、今も現役なので…。

  • [116]
  • 今日あった地震・番外編6 ~先を見据えた目~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年 3月12日(土)08時47分2秒
 
おはようございます(^-^)。

写真は昨年12/4に京成町屋駅付近で撮影した京成本線の高架です。
 御存知の皆様もいらっしゃると思いますが京成本線(京成上野~成田空港間)のうち、京成上野~青砥間は合併した筑波高速度電気鉄道(注。下記参照)の免許を用いて開業した区間になりますす。
 建設に際し、筑波高速度電気鉄道から建設部長として京成(当時は京成電気軌道)に入った人が当時の京成の社長に「将来の発展を考え、しっかりした物(設備)を作るべきだ(大意)」と、進言したのに対し、社長は「お金の心配はせず、立派な物を作ってくれ(大意)」と、返したそうです。
 写真の高架は1931(昭和6)年に開通した第1期区間(青砥~日暮里間)にありますが、支柱の白い部分は近年(東日本大震災の前にしたか後にしたかは記憶曖昧(^^;)された耐震補強ですが、高架本体は開通当時の物だそうです。

進言した建設部長も立派なら「お金の心配はするな」と言った社長も立派だと思います。両者共に将来の発展を見据えた目を持っていたのだと思いますが同時に、以下は推測の域を出ませんが、日暮里開業から8年前にあった関東大震災の経験も両者の判断に影響したのかなと思います。


(注)
タイトル:
筑波高速度電気鉄道とは 1ページ目
URL:
http://m.weblio.jp/c/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E9%AB%98%E9%80%9F%E5%BA%A6%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93

※同鉄道が目指したものと同じ路線がつくばエクスプレスとして開業しています。

  • [115]
  • 今日あった地震・番外編5 ~KYで見た二.二六事件~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年 2月26日(金)06時28分44秒
 
おはようございます(^-^)。

今日で「二.二六事件」が起きて80年目になります。
 これはいわば人為的に起きた出来事で地震に直接関係はありませんが、関連する資料を携帯電話から見ていた中で地震対策にも繋がる「KY=危険予知」の観点から興味深い話を見つけました。私もこれは初めて知りました。

この話の主人公は井上成美(いのうえ・しげよし)。後に「最後の海軍大将」と呼ばれる事になる日本海軍の軍人です。

話は二.二六事件の4年前に起きた五.一五事件【注1】に遡ります。
 当時海軍省軍務局第一課長の職にあった彼は事件の首謀者達が世間で英雄視される事を危惧すると共に、「海軍に先を越された」と考える陸軍の青年将校が必ず事を起こすと考え、海軍単独で海軍省を守る準備を始めます。
 彼は手始めに海軍省の構内にある東京海軍無線電信所(所長が海軍兵学校の同期生)が「部隊」であるので武装できることに気づき、小銃20挺を配備すると共に名目を付けて戦車1台を海軍省内に常駐させます。
 その後一時期戦艦比叡の艦長となり海に出ますが、事件前年の11月15日、彼は少将に昇進すると同時に横須賀鎮守府【注2。以下「横鎮」】参謀長(以下「井上参謀長」)となり12月1日に司令長官として着任した米内光政【注3】中将(以下「米内長官」又は「長官」)を補佐する立場になります。
 井上参謀長は着任すると庁舎内に記者控室を作って新聞記者に便宜を図りますが、これも不測の事態により海軍省等からの正規の情報ルートが途絶した場合を想定して横鎮独自の情報ルート作りを意図したものかも知れません。
 横須賀鎮守府は海軍省がある東京府(当時)を管轄しており、井上参謀長は長官(←井上参謀長と同じ認識があったと思います)の承認を得ていざと言う時、海軍省に十分な海軍の兵力を差し向けられるように…

☆横鎮所属の兵員で特別陸戦隊【注4】1個大隊を編成して2回召集し、顔合わせと訓練を行った

☆万一の時に海軍省に派遣する為砲術学校(在横須賀)に所属する掌砲兵20人をいつでも横鎮に呼集できるように準備をした。

☆いかなる場合でも特別陸戦隊1個大隊を東京の海軍省に急派する為、横鎮所属の警備艦である軽巡洋艦「那珂」艦長に昼夜雨雪を問わず芝浦に急行できるよう研究を命じた

…等の手配をします。これらの真の目的を知るのは長官・井上参謀長・先任参謀の3人だけでした。

明けて1936(昭和11年)2月20日頃。出入りの新聞記者から「東京の警視庁の前で陸軍が夜間演習を行った」という情報が入ると彼は警戒態勢に入ります。
 そして2月26日、官舎で就寝中の彼のところに「新聞記者から本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」と言う副官からの電話が入ります。二.二六事件の勃発です。彼は幕僚全員を鎮守府に非常召集するよう命じると共に自分も直ちに向かい、副官から詳細な情報を聴いた上であらかじめ用意していた処置を矢継ぎ早に行い、横鎮指揮下の部隊には自衛警戒を命じます。
 上層部からの干渉があったものの、最終的には特別陸戦隊4個大隊2000人余りを海軍省に派遣する事が出来ました(反乱部隊は歩兵1500人)。また、長官か井上参謀長のどちらの考えかはっきりしませんが、反乱部隊が宮城(皇居)を占領した場合には(特別陸戦隊で)昭和天皇を救出し、軽巡那珂or戦艦比叡に乗艦していただく事も想定していたようです。

冒頭にも書いたように二.二六事件は人為的な出来事なので厳密な意味でのKYとは違うかも知れません。ただ、「不測の事態」と言う意味では通じる物があると思います。また、彼の布石や対応も見事だと思いますが同時に、それらの実施を承認した理解のある上官=米内長官の存在も見逃せないと思います。


【注1】海軍の青年士官等が首相官邸等を襲撃し、当時の犬養毅首相を殺害した事件

【注2】鎮守府は日本海軍の根拠地兼後方機関で、定められた地域の防備も担当していました

【注3】1880年~1948年。後に海軍大将に昇進し連合艦隊司令長官や内閣総理大臣、最後の海軍大臣を務めた人物

【注4】陸戦隊は海軍が編成した陸上戦闘部隊で、「特別陸戦隊」は鎮守府の海兵団等陸上機関の人員で編成された陸戦隊の事

  • [114]
  • 今日あった地震・番外編4 ~デマについて~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年 2月13日(土)07時51分48秒
 
おはようございます(  ^∀^)。

「デマ」。
 皆様も一度は耳にされた事がある言葉だと思います。
 私が持っている国語辞典で「デマ」を引くと、「『デマゴギー』の略」とあり、続けて…

1.うそや誇大な言葉で民衆を扇動すること。

2.事実に反する悪宣伝。逆宣伝、中傷。

…と、書かれていますが現在は「悪意のある嘘や噂、流言」と言うニュアンスで使われる事が多いように思います。

 個人的に「デマ」は大きく分けて…

A.最初から故意に誤報を流した。

B-1.最初は正しい情報だったものの、人の口を経て広がる中で内容が変化した。

B-2.冗談や未確認の情報が人の口を経て広がる中で内容が変化した。


…に分ける事が出来ると思います。Aは論外ですが、Bの類は悪意が無いだけに難しいところだと思います。

1978(昭和53)年に発生した伊豆大島近海地震ではB-1に該当する事例が発生しています。
 詳しい事は最後にあるURLからアクセスしていただきたいと思いますが簡単に言うと…

「マグニチュード6(←単位に注意注意)クラスの余震が起こりうる」

 …と発表したものが人の口を伝わる中で…

「震度6(の地震が来る)」

 …になり、最後には…

「午後6時に大きな地震が来る」


…と言う話になり、一時的ですが静岡県下にパニックが起きたそうです。

また、地震ではありませんが、女子高生の冗談がきっかけとなり、銀行の取りつけ騒ぎに発展したB-2に該当する事例(これはデマの発端から終息まで追跡出来る日本で唯一の事例だそうです)も過去には起きています。

また一昨年、佐倉市にある国立歴史民俗博物館で開催された企画展示「歴史にみる震災」で関東大震災翌日の9/2に大阪で発行された号外を目にしましたが、そこには…

「箱根温泉も全滅した」

「甲府市も殆(ほとん)ど全滅」

「『宮城【注】』にも遂に延焼か」

…と言った見出しが躍っていました。この場合はB-2に該当すると言うのも有りますが、発生直後で情報が錯綜していた面の方が強いと思います。

東日本大震災の際も限りなくAに近い性格のデマが首都圏で流れましたが、その経験を踏まえると…

「内容が具体的。かつ、発信元がもっともらしい物ほどデマである(可能性が高い)」

…と思います。
 そこでその対策は? となりますが、個人的には…

「2つ以上のルートで情報を確認し、必ず裏を取る」

…事が肝心だと思います。「2つ以上」としたのは、1つであれば比較する物が無いので情報の真偽が分からない恐れがあるからです。
 また、「防災お役立ち情報《地震以外》」スレの「[678]ダメ。絶対!」に示したように、ネット上の書き込みが全て正しい訳ではなく、鵜呑みにするのは大変危険です。その意味からも、災害時には携帯ラジオが必須アイテムだと思います。

【注】読み方は「きゅうじょう」。現在の皇居の事

〔参考〕
タイトル:
西船橋マンの“今日あった地震16 ~伊豆大島近海地震~”
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/21



  • [113]
  • 今日あった地震・番外編3 ~テレビを見ていて…~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)21時00分5秒
 
こんばんは(^-^)。

昨夜、NHKのEテレ(教育テレビ)でレギュラーで放送されている「知恵泉(ちえいず)」の新春スペシャルがあり、私も見ました。
 内容は築城者の視点から見た築城に関する裏話的な事で「熊本城と加藤清正」・「彦根城と井伊直継」と「織田信長(安土城)」を取り上げていました。

この中で私が驚いたのは熊本城に関する事です
 熊本城の石垣は「武者返し」とも称される積み方(積み始めは緩やかですが上に行くほど急になる)ですが、それについて専門家氏が「単に防御にこだわるなら垂直にした方が良いはずなので、地震対策と防御の両立を目指した結果、このような積み方にたどり着いたのではないか?(大意)」との指摘をしていました。これは私も目からウロコでした。
 加藤清正は熊本城の築城を1601年から始めていますが、その5年前に発生した慶長伏見地震を経験しているので、それを踏まえたのではないかと思いました。

〔参考〕
タイトル:
西船橋マンの“今日あった地震74 ~慶長伏見地震~”
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/90

  • [112]
  • 今日あった地震94(訂正)

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年11月 1日(日)12時28分34秒
 
文中に間違いがありましたので訂正いたします。

(誤)今日あった地震『69』

(正)今日あった地震『55』

失礼いたしました<(_ _*)>。

  • [111]
  • 今日あった地震94 ~教訓の生かし方~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年11月 1日(日)12時23分9秒
 
こんにちは(⌒∇⌒)ノ"。

今回は「今日あった地震」の文章を作成する中で知った地震で得た教訓の生かし方について書いて参ります。

一つは新潟地震での話になります。
 同地震では日本コンビナート史上最悪の火災が発生し、甚大な被害が出てしまいました。火災の原因は配管が地震動で損傷しガソリンが漏れ出した事ですが、液状化現象(以下「液状化」)の発生が被害を大きくしたフシがあります。一方、同じ石油タンクでも地盤を締め固める工事をしていたところでは被害が無かったそうですが、「福井地震を教訓にその工事をしていた」と資料にありました。福井地震は倒壊した大和百貨店の写真に象徴されるように典型的な直下型地震とされていますが知られてはいないものの、液状化&それに伴う被害もかなりあったのだと想像されます。また、理由は分かりませんが、(当時の)国鉄新潟駅と新潟市役所も液状化の発生を予見して(当時の)耐震基準を上回る耐震性を持たせた設計&建築をしたので大きな被害は無かったそうです。

もう一つは慶長三陸地震です。
 これは文章を書くにあたり資料を調べる中で改めて確認したのですが、東日本大震災の際に東北地方を襲った津波も奥州街道(現在の国道4号線のうち、白河以南の区間)や陸前浜街道(現在の国道6号線のうち、東京都荒川区から宮城県岩沼市までの区間)の宿場町の直前までで止まり、宿場町への浸水はほとんど無かったそうです。資料には「これは先人たちが江戸時代の初期に慶長津波を経験し、その教訓に基づいて街道整備を行った結果であるとも推定されている」とありました。
 普通に考えると、津波の最奥到達点からいくらかの余裕を見て街道や宿場町を整備したはずで、それが東日本大震災の津波でも浸水しなかったと言う事は、東日本大震災と慶長三陸地震の津波(もっと言えば地震自体)の規模が同等だった可能性を示唆しているのではないでしょうか?
 あと、以下は今回の趣旨から少し外れるかも知れませんが、「今日あった地震69」で取り上げた和歌や地元に残る言い伝えから過去の大津波を読み取り、防災に生かした事も教訓を生かした事例と言えるのかも知れません。

ただ、教訓は時間の経過と共に薄れる傾向があります。
 東日本大震災直後に見たあるテレビで、確か大阪だったと思いますが、江戸時代にあった津波の最奥到達点に建立された石碑の最後に…

「後世の心ある人はこの石碑に墨を入れて欲しい(口頭での言葉を文章にしただけで、実際このように刻まれているかは分かりません)」

…と、刻まれていると言っていました。石碑を建立した方はここまで津波が来たと言う事実(教訓)が後世、薄れる可能性がある事を見通していたのかも知れません。

長文失礼しました<(_ _*)>


〔参考〕
タイトル:
西船橋マンの“今日あった地震50”
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/64

タイトル:
西船橋マンの“今日あった地震69”
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/69

  • [110]
  • 今日あった地震・番外編2 ~常総市の水害の教訓~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年10月16日(金)19時56分46秒
 
こんばんは。

記録的な大雨(「関東・東北豪雨」)で常総市を流れる鬼怒川の堤防が9/10、77年振りに決壊し、大きな被害(以下「常総市の水害」)を出したのは記憶に新しいと思います。それから1ヶ月が経過し、水害前後の状況がかなり分かって来るのと同時に、教訓(問題点)が見えて来たように思います。そしてそれは、地震への備えにも通じるところがあると感じました。
 そこで、今回の「今日あった地震」は「番外編2」として私が常総市の水害のニュースを通じて、地震に対する備えの参考にもなりうる物と感じた点を私見ではありますが、以下に記して参ります。

1つ目は「経験は諸刃の剣」。そして、「思い込みの恐さ」です。
 常総市には鬼怒川の他、小貝川も流れていますが、住民の方々は後者の堤防決壊を危惧していたものの、前者については比較的心配していなかったようです。理由としては…

☆後者は34年前に決壊しているのに対し、前者の77年前の決壊の記憶が無かった(「記憶している人が少なかった」とする方が正しいかも知れません)。

☆前者の堤防は高いのに対し、後者のそれは前者と比較すると低かった(←住民の方の言葉のニュアンスから)

…と言う事のようです。また、浸水は時間をかけて拡大したようで、市役所の浸水が始まったのは堤防決壊からほぼ半日後の11日午前0時頃だったとニュースで報じていました。それに関連してある住民の方が…

「(決壊)当日に水が来なかったから大丈夫と思ったが甘かった」

…と、話していました。 東日本大震災の際にも「過去に津波が来た事が無いから大丈夫」とか、「津波の到達予定時間が過ぎても津波が来ないから大丈夫」と思っていたところに津波が来襲して危機一髪難を逃れた…。と言うケースが発生しています。過去の経験は大切だと思いますが、それにこだわりすぎると逆の結果を招く事になりかねません。妙な言い方になりますが「経験を超える」事も必要ではないかと思います。

2つ目は「情報」です。ここで言う「情報」は「情報伝達(連絡・通信手段も含む)」と「情報の共有」になります。
 前者については常総市の水害で避難指示等の伝達が遅れたor特定の手段での伝達がされなかった事例がいくつか報じられています。内容を見ると人の不足と言うより、市役所内の混乱(少し厳しい言葉で言えば水害に対する準備不足から来た)が見え隠れしているように思います。ある事例では「上流で出た被害に手を取られてしまい、下流で堤防が決壊するとは思わなかった」と言う担当氏の話もありますが、話の後半部分については思い込みの恐さも感じてしまいます。また、屋外にあるスピーカーからの放送が雨や、音が割れていて聞き取れなかったと言う住民の方の話もテレビで見ました。また、一時15名だった行方不明者が通信手段の回復後迅速に全員の無事が確認されましたが、これについては災害時の連絡・通信手段の確保と言う点で考えさせられました。
 後者の「情報の共有」は一つの好例があります。決壊地点から500m下流で「地域を守ろう」と住民&消防団の皆さんが500個の土嚢を作り、それを周囲より低くなっている辺りに2段で80mに渡り積み重ね、増水した水が堤防を超えるのを防ぎ、ひいては堤防の決壊を防いだ(←専門家も認めています)事例がありました。
 このケースでは消防団員から住民の方に「ここからもし越水(=水が堤防を越えて流れ出す)したら(堤防が)決壊する」との情報を伝えられていた事がこの行動の原動力になったようです。また、住民の方もここがウイークポイントだと言う事を普段から把握していたのかも知れません。ただ、災害時は情報が錯綜し、デマも多いので情報の真偽を見極める事も重要になると思います。

以上、私が感じた教訓を挙げましたが、更にその中から…

『如何なる場合、そして、科学等が進歩しても最後はやはり人が重要』

…と、言う事を強く感じた次第です。

  • [109]
  • 今日あった地震93 ~自然に逆らわずに…(2)~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年10月 5日(月)21時24分41秒
 
再び<(_ _*)>。

「93」では地震ではありませんが、カスリーン台風【注1】の際、押し寄せた利根川の濁流から東京を守る最終防衛線となり、2日間【注2】食い止めた「桜堤」を取り上げて参ります。

桜堤は東京都葛飾区の水元(みずもと)公園(以下「公園」)一帯にある江戸時代の8代将軍徳川吉宗の時に紀伊藩士の指導で築造された堤防で、堤防上に桜を植えた事から桜堤と呼ばれるようになったそうです。
 ちなみにこの文章を書くにあたり資料を調べたところ、桜堤がある水元公園一帯はかつて利根川(古利根川)の河川敷で、徳川家光が実施した江戸川改修事業に伴い廃川となった後、1729年に水害防止及び灌漑用水を調整する遊水池として「小合溜(こあいため。【注3】)」が作られ、現在に至っているようです。

私は5年前の9月と先月6日(←この文章を書く為)に現地に足を運びました。
 5年前に足を運んだのはカスリーン台風の際、利根川の濁流から東京を守る最終防衛線だった場所をこの目で見たいと思ったからですが、現地で桜堤を初めて見た時、私はある種の衝撃を受けました。
 それまで私は堤防に対して、「高くて幅もあり、川の流れに沿って直線的に作られている」とのイメージがありましたが、桜堤は私が考えていたよりも低く、幅も狭かったからです。比較参考に桜堤(9/6撮影。上写真)と家から自転車で行ける距離にあり、従来の私が堤防に対して持っていたイメージの原点でもある江戸川堤防(9/26撮影。下写真)の写真をアップいたします。写真では高さしか分かりませんが、幅も前者は後者の半分~あっても6割程度だと思います。
 話を5年前に戻しますが、公園東端の駐車場に車を停めた私は、公園に残る桜堤を東端から西端まで歩きましたが、その中で桜堤が曲がりくねっている事に気づきました。その時も江戸時代の(日本伝統の)土木技術の高さを感じると同時に自然に逆らわない工法だったのかな? と、感じた事を今も記憶しています。

その後色々な資料を見ている中で、桜堤が曲がりくねっている理由として私の中の頭に「桜堤はかつての利根川河川敷に沿って作られたからではないか?」との仮説が思い浮かびました。河川敷【注4】に沿って作られたとすると、桜堤が曲がりくねっている事も矛盾しません(自然地形に合わせたから曲がりくねって当然)し、「小合溜」が水害防止機能を兼ね備えた遊水池ならば、かつての河川敷沿いにそれほど高くない桜堤を作った事も納得が行きます(「かつての河川敷」と言う地形を活かせば低い堤防でも大量の水を一時的に貯水する事は可能なはず)。

カスリーン台風で桜堤は2日間持ちこたえたものの江戸川堤防の破壊が間に合わず(桜堤決壊からほぼ半日後の15時15分に成功)、9月19日の2時45分に決壊し、江戸川・葛飾の両区に濁流が流れ込む結果となりました。
 最終的に東京への濁流を食い止める事は出来ませんでしたが遊水池の機能を果たし、「時間稼ぎ」が出来たのではないか(桜堤があっけなく決壊していたら東京の被害は更に拡大していたと思います)? と、個人的には思っています。

以下は個人的な考えですが、最新の技術と言えども完璧は有り得ません。自然に逆らう事なく技術を上手く組み合わせる事が出来れば、被害の減少に繋がるのではないかと思います。


【注1】1947(昭和22)年9月に日本に接近した台風。決壊した利根川の濁流が東京に到達した最新(かつ最後)の洪水。

【注2】資料に「9月17日午前1時10(分) 東京都の北端葛飾区水元小合新町の大場川堤(桜堤)に浸水始まる」とあり、19日午前2時45分に決壊した事を踏まえ「2日間」としましたが、「9月18日12時(正午)には埼玉県と東京都の境である大場川に達し」とする文献もあるので、後者を取った場合にはおよそ15時間となります。

【注3】正式名称は「小合溜井(こあいためい)」。

【注4】治水工事が施された河川の中で、普段水が流れていない平坦な土地(高水敷)の事。

  • [108]
  • 今日あった地震92 ~自然に逆らわずに…(1)~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年10月 5日(月)21時20分23秒
 
こんばんは。

今日は自然に逆らわなかった結果、地震の被害を回避出来たと思われる二つの事例と地震ではありませんが、カスリーン台風で利根川の洪水から東京を守る最終防衛線となった「大場川堤防(古利根川桜堤・通称桜土手。以下『桜堤』)」について書きますが一つにまとめると長文となる為、92で前2者を、93で後者について書いて参ります。

一つ目は伊豆半島で大きな被害を出した「伊豆大島近海地震」or「伊豆半島沖地震」の時、現在はある防災関係機関のトップで、当時NHKアナウンサー(or記者)だった方が被災地に行かれた時のエピソードです。
 地震発生後、氏は取材をする為現地に赴きましたが、崖を削り取って新しく作られた道は土砂崩れで通行止の為、やむなく旧道を通る事になりましたが、自然に逆らわず、山腹を回る(巻く)ように作った道には一つの落石も無かったそうです。
 私は氏の著書を読みこれを知りましたが、強く印象に残っています。

二つ目は私の個人的体験ですが、中山競馬場です。
 春の開催期間中だった中山競馬場は東日本大震災以降の開催が中止となり、競馬場自体も1ヶ月程閉鎖を余儀なくされました。4/16から馬券の発売が再開され、私も足を運びました。

(((((((( ・_・)

その際、内心では芝及びダートコースに被害があるのではないかとの危惧をしていたのですがコースに被害はなく、競馬場の建物にも重大な被害はありませんでした。私は被害が無い事を知り、安堵すると同時に中山競馬場について以前、本で読んだ事が甦りました。
 昭和初期に開場した中山競馬場のコースは当時の陸軍騎兵将校(大佐か中佐だったと記憶しています)の設計になりますが、彼は自然の地形を活かし手を加えず、そのまま使用したのだそうです。中山競馬場のコースの特徴を表すものとして「ゴール前の急坂」。また、障害コースには「バンケット」と呼ばれる谷地(個人的には窪地だと思いますが)がありますが、どちらも自然の地形を活かした結果なのです。
 個人的には馬と共に広大な自然を駆け回る兵科である騎兵の将校が自然の地形を活かした設計をしたからこそ、東日本大震災で被害が無かったのだと感じました。

93に続きます。

  • [107]
  • 今日あった地震91 ~明応4年8月15日の地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 9月12日(土)07時19分31秒
 
おはようございます。

1495(明応4)年の今日(旧暦では8/15)。大地震が発生し、鎌倉由比ヶ浜に津波が押し寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、200余人の溺死者が出たと記録にあります。

従来、この地震に関する記述が『鎌倉大日記』にしかなく、明応地震(「今日あった地震47 ~明応地震~」参照。以下「明応地震」と表記)の誤記の可能性も指摘されていましたが、その後同時期の複数の資料(京都でも有感地震があったそうです)からこの日に地震があった事は裏付けられたようです。

そして、静岡県伊東市の宇佐美遺跡の発掘調査で地層中に見出だされた砂層が15世紀末頃の津波堆積物である事が判明し、「明応地震とは別の地震=相模トラフを震源とする大地震(関東地震)」の存在が確実になりました。
 「明応地震と別」と判断するポイントの一つになったと思われるのが『鎌倉大日記』にある「鎌倉由比ヶ浜には津波が押し寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、200余人の溺死者が出た」の一節です。この場合、参考となるのが明応地震と同じ震源域で発生した安政地震(1854年)で、この時の津波は下田と伊豆西海岸に大被害をもたらしたものの、伊東・宇佐美・川奈等では被害は記録されていません。となると、伊東市の宇佐美遺跡にある津波堆積物が明応地震の津波による物だとするのはいかにも不自然だと思います。明応4年の地震は何回か前の関東大震災なのかも知れません。

この文章は手元にある資料を参考に作成しました。

  • [106]
  • 今日あった地震90 ~貞観地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 7月13日(月)05時48分51秒
 
注・この文章は長文になります

おはようございます。

869〔貞観(じょうがん)11〕年の今日(旧暦では5/26)、陸奥国【注1】東方沖(日本海溝付近)海底を震源域とする巨大地震=貞観地震が発生しました。東日本大震災発生直後に、「ひとつ前の東日本大震災」と言われた事もあるので記憶されている方も多いかと思います。震源域については最近の研究から宮城県沖から福島県沖と推定されているとありました。
 マグニチュードは諸説有りますが、少なくとも8.3以上だったと推定されているようです。

「日本三代実録【注2】」にはこの地震に関する記述がいくつか有りますが、その一部を抜粋&現代語に意訳すると…

5月26日、陸奥国で大地震が起きた。
 (空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城【注3】や倉庫・門櫓・「牆壁(しょうへき)【注4】」などが多数崩れ落ちた。
 雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。
船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった

…と、あります。始めの方にある「(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし」と言うのは前兆現象のひとつである発光現象を記した日本で最初の事例ではないかと言われています(異説有り)。これが発光現象なのであれば、貞観地震は夜に発生したと言う事になります。また、「海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった」との記述が有りますが、それを裏付けるように多賀城市の遺跡から濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているとの事です。また、上記の記述及びそれに続く「船で逃げたり山に避難したりすることができず」から、地震発生から津波の来襲までが短時間で、避難する余裕が無かったとも読めます。先の発光現象(と思われる事象)を考え合わせると、暗い中の避難は困難を極めたのではないでしょうか?
 「千人ほどが溺れ死に」とありますが、これは多賀城周辺の数字と思われる事と常陸国【注5】にも被害があった事を示唆する記述が日本三代実録の中にある事。及び、後述するようにこの津波に関する伝承が広い範囲にある点を踏まえると、貞観地震全体の死者はこの数字の上回る可能性が高いと思います。

東日本大震災直後、貞観地震が「ひとつ前の東日本大震災」と言われた事は前述しました。
 この地震による津波の伝承は東北地方から房総半島太平洋沿岸の広い範囲にありますが、1980年代以降の地質及び考古学の調査で津波堆積物が岩手県から福島県にかけての太平洋沿岸に分布する事が分かって来たものの同時に、従来言われていた地震や津波の規模について過大評価だったのではないか? との指摘も出ています。
 その根拠となるのが地層中に残る津波堆積物から推定される浸水距離です。東日本大震災では津波が仙台平野の内陸4~5km付近まで到達していますが、貞観地震に伴う津波堆積物は現在の海岸線から3kmまでしか分布してないのだそうです(貞観地震当時の海岸線は現在より1km内陸側だったと推定)。
 また、東日本大震災で津波の被害を受けた陸前高田市では貞観地震による津波堆積物が確認されておらず、その点からも過大評価だったとの指摘は決して的外れでは無いと思います。

ただ、ここで一つ考えなければならないのは、津波が運ぶのは「砂」だけなのか? と、言う点です。
 これは噴火で発生する火砕流にも言える事ですが、どちらも最先端部にあるのは軽く、遠くまで運ばれ易い泥の類いになりますが、それは浸食され易い(裏を返せば地層中に残り難い)と言う特徴も持っています。故に、津波堆積物の有無だけで浸水範囲を判断するのは危険であり、貞観地震津波も堆積物に示された範囲以上に内陸まで到達していた場所が有る可能性も否定は出来ないと思います。

そして、「ひとつ前の東日本大震災」と言う主張についても、「1000年ぶりならばもっとマグニチュードが大きくなるはず」との指摘の他に、ボーリング調査から過去3000年の間に3回(平均間隔800~1100年)の津波の痕跡(堆積物)が確認されたとの事です。
 貞観地震や東日本大震災は東北地方太平洋側を震源とする固有地震のひとつなのかも知れません。
、ちなみに、東北地方太平洋側を震源とする大地震と目されている地震には…

A「貞観地震(869年)」

B「享徳地震(1454)」

C「慶長三陸地震(1611年)」

D「東日本大震災(2011年)」

…が、有ります。

尚、この文章はフレッシュアイペディアと私の持っている資料を参考に作成しました。


【注1】時代により違いが有りますが、当時は現在の青森・岩手・宮城・福島の全域と秋田の一部に相当

【注2】日本の平安時代に編纂された歴史書で正史(国家が編纂した公式の歴史書)。清和・陽成・光孝天皇の3代30年間〔858(天安2)年8月から887(仁和3)年8月まで〕を扱う

【注3】諸説有りますが多賀城を指しているとの説が最有力

【注4】石・煉瓦・土等で築いた塀・垣根・囲いの事

【注5】西南部を除いた現在の茨城県に相当


〔参考〕
タイトル:
西船橋マンの今日あった地震50 ~慶長三陸地震~
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/64

タイトル:
西船橋マンの今日あった地震78 ~享徳地震~
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/94


  • [105]
  • 今日あった地震89 ~浦河沖地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 3月21日(土)06時24分32秒
 
おはようございます。

1982(昭和57年)の今日、11:32。北海道日高支庁浦河郡浦河町南西沖20kmの深さ40kmを震源とするM7.1の地震=浦河沖地震が発生しました。
 私は当時小1で地震に関する直接の記憶はありませんが、長姉の卒業記念文集の「その年にあった出来事」の昭和57年の項目に「浦河沖地震」と書いてあった事をおぼろげながら記憶しています。
 前回・前々回と「固有地震」を取り上げましたが、その中に「日高支庁から青森県にかけての海域では準周期的にM7~7.6位の地震が発生しているが、固有地震としてはっきりしない部分が多い」とあり、そこには浦河沖地震も含まれていました。浦河沖地震は「固有地震」に準じるものなのかも知れません。

各地の震度は震源に最も近い浦河町で震度6(当時)を記録し、震度4を札幌市・帯広市・小樽市・岩見沢市・苫小牧市・倶知安町・広尾町・青森県むつ市で観測する等、北海道全域と東北地方北部を中心に強い揺れがあり、北海道・東北地方のほぼ全域と関東~中部地方の一部まで揺れを感じ震源域から100km離れ、震度4とされた札幌市でも局所的に震度5に相当する揺れを感じたと資料にありました。
 東日本大震災の際、東京でも同じような現象がありましたが、地盤が関係していると思われます。ちなみに北海道で「震度6」を観測したのは1952年十勝沖地震以来30年ぶりだったそうです。
 また、資料に余震回数は出ていませんでしたが、最大余震は本震発生当日の19:22に発生した地震でマグニチュードは5.8。浦河町で震度4を観測したものの、大きな被害はなかったとありました。

被害は浦河町とその周辺に集中し、浦河町ではブロック塀や自動販売機が相次いで倒れ、電柱や煙突も傾き、窓ガラスもほとんどが割れ地面に散乱しました。地震観測の最前線となった浦河測候所では3台の地震計中2台が落下して破損し、更にそのうちの1台は、地震を感じるセンサーのバネが折れていたそうで、揺れの強さが想像出来ます。大通りの商店街は軒並み損壊し、モルタルの壁がそっくり剥がれた店もあったそうです。
 隣接する静内町・三石町(現・新ひだか町)でも様々な被害が発生し、静内町では静内川にかかる橋が倒壊や隆起、沈降をした影響で通行不能となったようです。
 また、この地震では浦河港で80cm、青森県八戸で28cmの津波がそれぞれ観測されましたが被害はありませんでした。

地震全体の被害は…

☆負傷者167名
☆住家全壊…13棟
☆同半壊…28棟
☆同一部損壊…675棟(174棟との記録も有り)
☆その他…22棟
☆船舶転覆等6隻

…で、浦河港および室蘭港の港湾施設にもおよそ3億5000万円の被害とありました。

また、地震前に見られた現象として普段は揚がらないメヌケと呼ばれる高級魚が地震の前に大量に水揚げされたとの証言があります。前兆現象なのかも知れません。

尚、この文章はフレッシュアイペディアを参考に作成しました。

  • [104]
  • 今日あった地震88 ~固有地震②~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 3月 1日(日)08時08分6秒
 
再び。
 ①で触れたように②では【2.海洋プレート内(スラブ内)地震】と【3.様式が特定できないもの】を記述し、その後で私の感じた事を書いて参ります

【2.海洋プレート内(スラブ内)地震】

☆北海道東方沖地震:80年前後:8.2前後:1994年の同名地震

☆釧路沖地震:25~30年:7.5前後:1978年の地震及び1993年の同名地震

☆芸予地震:60~70年前後:6.7~7.4:1905年と2001年の同名地震
※安芸灘・伊予灘・豊後水道が震源域


【3.様式が特定できないもの】

☆北海道北西沖地震:3900年程度:7.8程度:地質調査により2100年前に該当する地震が発生したと推定される
※日本海東縁

☆北海道西方沖地震:1400~3900年程度:7.5前後:1940年積丹半島沖地震(M7.5)
※日本海東縁

☆北海道南西沖地震:500~1400年程度:7.8前後:1993年の同名地震
※日本海東縁

☆青森県西方沖地震:500~1400年程度:7.7前後:1983年日本海中部地震
※日本海東縁

☆佐渡島北方沖地震:500~1000年程度:7.8程度
※地質調査により再来間隔が推定されている。日本海東縁

☆秋田県沖地震:1000年程度以上:7.5程度
※地質調査や周辺領域の地震活動との整合性を考慮し推定。日本海東縁

☆山形県沖地震:1000年程度以上:7.7前後:1833年庄内沖地震(M7.7)
※日本海東縁

☆新潟県北部沖地震:1000年程度以上:7.5前後:1964年新潟地震
※日本海東縁

☆南関東直下地震:23.8年:6.7~7.2程度:1855年安政江戸地震(M6.9)・1894年明治東京地震(M7.0)及び東京湾付近を震源とする地震(M6.7)・1895年茨城県南部を震源とする地震(M7.2)・1921年茨城県南部を震源とする地震(M7.0)・1922年浦賀水道付近を震源とする地震(M6.8)・1987年千葉県東方沖地震(M6.7)

☆神奈川県西部地震 :- :-:1633年寛永小田原地震(M7.0)・1782年天明小田原地震(M6.7)・1853年嘉永小田原地震(M6.7)
※震源領域がはっきりしない為、地震調査委員会の評価では南関南関東直下地震の中でまとめて評価されている

☆与那国島周辺の地震:100年前後:7.8前後:1966年の地震


以下は上記のデータを見ながら文章を作成した私の個人的感想になります。
 まず感じたのは「固有地震」の多さです。私もこれだけ沢山あるとは思っていませんでした。そして、一つの地震の震源域でも発生間隔の異なる大小の固有地震がある事もにも驚きました。
 2つ目が発生間隔や規模が一定ではない事。1400~3900年の発生間隔には正直な話仰天しましたが同時に、私達が知らない「未知の固有地震」が存在する可能性もあるのではないかと感じました。
 3つ目は発生間隔と地震の規模が比例する訳ではない事。これはプレートが潜り込むペースの違いではないかと思います。

尚、①②ともフレッシュアイペディアを参考に作成しました。

  • [103]
  • 今日あった地震87 ~固有地震①~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 3月 1日(日)08時05分36秒
 
おはようございます。

先日「今日あった地震86 ~寛政地震~」をアップしましたがその文章を作成する為に資料を調べている中で…

   「固有地震」

…と言う言葉に遭遇しました。
 個人的に「このような意味だろう」的な事が漠然と頭に浮かんでいましたが、調べてみると…

「ある断層において、ほとんど同じ間隔と規模をもって、周期的に繰り返し発生する地震の事」

…とあり、ほぼ予想通りの意味で、更に…

「固有地震は震源域・規模や地震波形までも類似していることから、相似地震という呼び方もある」

…と、続いていました。

資料の中では…

【1.海溝型地震】

【2.海洋プレート内(スラブ内)地震】

【3.様式が特定できないもの】

…の3つに区分(冒頭の数字は私が便宜上付しました)されていました。上記の区分に沿って以下に記述して参ります。

以下の一覧は「地震名:発生(再来)間隔 :規模(M):該当する最新の地震の発生年等」の順に記述し、特記事項が有る場合は「※」を付して記して参ります。
 尚、ひとまとめにすると長く読み難くなる為、【2.海洋プレート内(スラブ内)地震】と【3.様式が特定できないもの】は②として分けて記述いたします。


【1.海溝型地震】

☆択捉島沖地震:70年前後:8.5:1963年の同名地震

☆色丹・択捉沖(M7級):10年前後:7.1前後かそれ以上:1995年

☆色丹島沖地震:70年前後:8.2前後:1969年

☆根室半島沖地震:70年前後:7.9前後:1973年の同名地震
※下記の十勝沖と連動する場合、規模は8.3前後に跳ね上がる

☆十勝沖・根室沖(M7級):15~20年:7.1前後:2004年の根室半島沖地震

☆十勝沖地震:70年前後:8.1前後:2003年の同名地震
※襟裳岬よりも東側の海域で上記の根室半島沖と連動する場合、規模は8.3前後に跳ね上がる

☆三陸沖北部地震:100年前後:8.0前後:1968年十勝沖地震
※襟裳岬よりも西側の海域

☆宮城県沖地震:35~40年:7.5前後:1978年の同名地震
※下記の三陸沖南部と連動する場合、規模はM8.0前後に跳ね上がる

☆三陸沖南部地震(三陸沖南部海溝寄り):100年前後:7.7前後:1897年

☆福島県沖地震:400年以上:7.4前後:1938年福島県東方沖地震

☆茨城県沖地震:約21年:6.7~7.2:2008年の地震が該当。

☆(三陸沖~房総沖海溝寄り):130年前後:8.2:1896年明治三陸地震及び1933年昭和三陸地震

☆関東地震(大正型):200~400年:7.9前後:1923年の同名地震
※神奈川県・東京湾南部・房総半島西部が震源域。北アメリカプレートとフィリピン海プレートの境界で起こる

☆関東地震(元禄型):2000年超:8.1前後:1703年元禄地震※上記に加え、房総半島南沖~南東沖までが震源域となる。北アメリカプレートとフィリピン海プレートの境界で起こる

☆東海地震:100~150年:8.0前後:1854年の同名地震
※東海・東南海・南海連動型地震の場合、M8.5~8.7と想定されておりと、歴史的規模になる

☆東南海地震:90~150年:8.1前後:1944年の同名地震

☆南海地震:90~150年:8.4:1946年の同名地震
※上記の東南海と連動する場合、M8.5前後に跳ね上がる

☆日向灘地震:200年前後:7.6前後:豊後水道南部・日向灘が震源域。

☆日向灘地震(M7級):20~30年:7.1前後:1941年・1961年・1987年の地震
※震源域は小さめで、上記の震源域の中でばらばらに出現する

②に続きます。

  • [102]
  • 今日あった地震86 ~寛政地震~

  • 投稿者:西船橋マン
  • 投稿日:2015年 2月17日(火)05時32分37秒
 
おはようございます。

1793(寛政5)年の今日(旧暦では1/7)、正午頃。牡鹿半島沖を震源とする推定マグニチュード8.0~8.4(異説有り)の大地震=寛政地震が発生しました。 この地震は周期的に発生している「宮城県沖地震」の一つで、1978年に発生した宮城県沖地震(以下「1978年の地震」。「今日あった地震34 ~宮城県沖地震~」参照)と同じ性格の地震になりますが1978年の地震と異なり、宮城県沖地震とその海溝側(三陸沖南部海溝寄り)との連動型地震と考えられています。この地震は、宮城県沖地震単独としては最大規模なのだと資料にありましたがニュアンスは異なるものの、関東大震災と元禄地震の関係【注1】に似ているかも知れないと感じました。

各地の推定震度は…

6:北方早稲田・登米

5~6:花巻

5:弘前・雫石・仙台・名取・相馬【注2】

4~5:福島・羽黒

…で、江戸を含む広い範囲で4以上の揺れがあったようです。そして、相馬では10ヶ月以上余震が続いたと言う記録があると資料に出ていました。
 また、八戸から九十九里浜の太平洋沿岸に津波襲来の記録があり、その波高は…

☆田ノ浜(現・山田町。以下同)で3~4m

☆両石(釜石市)で4~5m

…と記録されていて、後者については推定遡上高【注3】9mと指摘する専門家も居ます。

この地震による被害としては…

☆大津波が発生し須賀浦(場所不明)にて家17軒が流れ12~13人が流死

☆仙台藩【注4】領内で圧死12人、馬13頭、潰家1060余

…等とあり、全体では…

☆潰家および流失家:1730軒余

☆船の流失及び破損:33

☆死者:44人以上

…と言う数字が残されています(異説有り)。

尚、この文章はフレッシュアイペディア等を参考に作成しました。


【注1】両者は「関東地震〔相模トラフを震源とするプレート境界(海溝)型地震〕」に区分され、前者(「大正型」)の震源域の南端は神奈川県西部から野島崎付近までなのに対し、後者の震源域(「外房型」)には房総半島南東沖まで含まれ、後者は「大正型」「外房型」の両震源域が連動した可能性が指摘されています
(参考)
タイトル:
今日あった地震52 ~関東地震~
URL:
http://8222.teacup.com/earthquake/bbs/mobile/thread/detail/thread_id/37/thread_num/66


【注2】福島県の相馬と思われます

【注3】陸上の斜面や崖などに残る平常潮位面からの浸水痕跡のその付近での最大の高さで、簡単に言うと「陸上を駆け登った高さ」

【注4】別名「伊達藩」。主な領域は岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町(他に茨城県および滋賀県に飛び地有り)